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15.漱石と旅②
泉鏡花の『婦系図』後篇は、神戸行きの急行列車の車内から始まります。静岡へむかう早瀬主税が乗っています。同じ年、教師を辞め、朝日新聞社社員となった漱石が書いた『虞美人草』には、東京(新橋)へむかう東海道線車内の様子が描かれています。
甲野と宗近、井上孤堂父娘がお互いに知らず、京都から同じ汽車に乗り合わせています。東京の博覧会見物に出かける人々で、駅も車内も込み合っている。給仕(ボーイ)が時時室内を抜ける。《急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗った様な気がしない》と宗近が言います。夜が明ける。《おい富士が見える》宗近が言う。汽車は沼津で息を入れ、宗近は顔を洗う。孤堂は駅弁を買う。宗近、甲野は食堂車へ。ハムエッグを食べ、そして、コーヒーを飲むのです。そう言えば、『婦系図』の車内も食堂車が舞台でした。明治40年、1907年です。
漱石は『三四郎』『行人』でも、東海道線の車内を描いていますが、いずれも『虞美人草』と同じ上りの汽車です。
名古屋から新橋行の急行に乗った三四郎。この車内で三四郎は後に広田先生と分る男といっしょになっています。男は三四郎に話しかけ、豊橋で水蜜桃を買って三四郎にも振る舞い、浜松で二人とも弁当を買い、富士山が近づくとこんなことを言い出します。
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。(略)あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。(略)」
「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。
『行人』(1912~13年)では、二郎と母、兄夫婦が和歌山に旅した帰り、大阪から寝台列車に乗って東京へむかう様子が描かれています。幸い、一室四人の寝台(一等寝台であろう)が取れて、上段に二郎と兄、下段に嫂と母がそれぞれ寝ることに。駅夫の呼ぶ名古屋々々々の声に二郎は目を醒まされ、雨に気づいて窓を閉めます。時計は真夜中の12時過ぎています。
《富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、》兄はよく寝ていた。やがて食堂が開いて、乗客の多数が朝飯を済ました頃、《自分達は室内の掃除に取り懸ろうとする給仕を後にして食堂へ這入った。食堂はまだ大分込んでいた。出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせた。自分が母に紅茶と果物を勧めている時分に、兄と嫂の姿が漸く入口に現われた》。漱石も東海道線の旅では食堂車を愛用したのでしょう。
東海道線の旅を描写した三作品に共通するのは、いずれも富士山が出てくることです。若い頃、二回登ったことがある富士山を描かなければ、東海道線の旅も味気ないものになってしまうと感じたのかもしれません。それとともに漱石は、急行、給仕、食堂車、一等寝台などを登場させています。これらはいずれも山陽鉄道が日本で初めて取り入れたもので――長距離急行(1894年)、給仕の添乗(1898年)、食堂車(1899年)、一等寝台(1900年、二等は1903年)――、鉄道国有化後、それらは東海道線など長距離幹線鉄道に広がっていきました。「現代作家」漱石にとって、比較的目新しい事象として、どうしても作品に書き込んでおきたかったのでしょう。
イギリス留学の思い出の記である『倫敦塔』によると、《御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な》漱石にとって、《広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も》何等の便宜をも与えるものではありませんでした。けれども、その後の漱石にとって、汽車や電気鉄道はずいぶん便宜を与えたようで、作品にしばしば登場することになるのです。
あまり論じられていないことですが、『虞美人草』はあきらかに鏡花の『婦系図』を意識したものと言えるでしょう。さらに言うなら、『坑夫』は『婦系図』の後篇にあたり、ともに、恋愛問題のこじれから東京にいられなくなり、逃げて行く場面から話が始まるのです。早瀬主税の行く先は故郷静岡でしたが、『坑夫』の主人公については当てのない旅でした。
『坑夫』が漱石の作品で特異な存在を示すのは、実体験をまったく基にしていないことでしょう。漱石の作品において、『こころ』の先生とKを除けば、東京への出入りはいずれも新橋であり、東海道線を使用しています。『坑夫』だけが、千住大橋を渡って、徒歩で北へ北へとむかっているのです。『坑夫』の主人公はその後、長蔵という男と出会い、坑夫になることを決意して、銅山にむかって汽車に乗っています。
この銅山が足尾であることは定説になっていますが、主人公はどこから汽車に乗り、どのように足尾へ行ったのでしょうか。考えられるのは現在の東武鉄道伊勢崎線。1899年に北千住から久喜まで開通したこの鉄道は、漱石のところに題材が持ち込まれた1907年に足利まで開通しています。漱石はさっそく主人公をこの汽車に乗せ、足利まで運んだのです。汽車賃32銭と書いてあります。《改札場から表へ出ると、大きな宿の通りへ出た》と書いてあるのが足利のことでしょう。
ここまでは実態に即して何とか納得できるのですが、作品ではこの後、夕飯を食べ、山越えをして、途中牛小屋で一泊し、翌日の御午(ひる)までに銅山に着いているのです。地図上ではたしかに足尾は足利の真北にありますが、標高1000メートル超の足尾山地を越える道はありません。実際には、足利から両毛線に乗って桐生まで行き、その先、足尾まで40キロの道を歩くことになります(足尾鉄道開通は、1912年です)。最新の路線に乗せた後は、現実を無視した設定です。なんとも不思議な作品ですが、もちろん、漱石は足尾へ行ったこともない。そのような漱石が、東京を出て銅山まで、400字詰原稿用紙で100枚の文章を書いているのですから、そのイメージの膨らませ方はすごいものだと思います。
イギリスから帰国後の漱石は、膨大な仕事や心労を抱えて、旅行していません。1907年、朝日新聞入社が決まり、教職を辞すと、京都・大阪へ旅した漱石ですが、その後また新聞連載を抱え、旅行から遠ざかっていました。
1909年、漱石は中村是公の招待で満州・朝鮮を旅しました。大阪から大連まで船に乗り、帰路は釜山から下関まで関釜連絡船を利用し、下関から汽車に乗って帰京。途中、漱石は広島・大阪に下車した後、京都に立ち寄って二日間を過ごしています。ソウル(南大門駅)から東京まで、通し切符で41円98銭だったと、漱石の日記に記されています。
この旅行などもあって体調を崩した漱石は、1910年に入院後、転地療養をかねて修善寺を訪れています。遅れてきた松根東洋城も御殿場から同行。『思い出す事など』には書かれていませんが、二人は三島駅(現、御殿場線下土狩駅)で下車。そこから豆相鉄道の軽便に乗り換えて大仁まで来て、人力車か乗合馬車で修善寺にむかったと考えられます。軽便は大仁までは、すでに1899年に開通していましたが、修善寺まで通じたのは1924年です。
修善寺で生死をさまようことになった、いわゆる「修善寺の大患」を乗り切った漱石は東京へ戻って再入院しました。
翌1911年、退院した漱石は、6月、信州へ講演旅行に出かけました。食事を気遣う鏡子が同行。途中、「修善寺の大患」で世話になった森成麟造の住む高田にも立ち寄り、講演しています。すでに信越線が高崎から長野・高田を経由して新潟まで開通しており、塩尻までの中央線と、その先、長野にむけて篠ノ井線も開通していましたから、すべて汽車で移動できたことになります。
続いて、8月にも関西講演旅行に出かけ、明石・和歌山・堺・大阪で講演、そのまま胃潰瘍で大阪胃腸病院に入院しました。『行人』は関西講演旅行の見聞がおおいに活かされています。大阪胃腸病院の様子もじつに細かく描かれていますが、関西の鉄道にも興味が払われています。
翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかも中々別嬪がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯を遣って御覧なさい」と岡田が自分に注意したから(略)。
この汽車は難波と和歌山市を結ぶ南海鉄道(現、南海電鉄本線)で、1903年に全線開通し、鉄道国有化後の私鉄として初めて、1906年に食堂車を連結し、給仕は全員女性でした。1907年に電化されたので、漱石が乗車した時にはすでに電車になっていたことになります(阪和線は1930年全通)。
和歌山市駅に着いて、《停車場を出るとすぐ其処に電車が待っていた》。《和歌山市を通り越して少し田舎道を走ると、電車はじき和歌の浦へ着いた》。作中には、南海線から見える風景や、和歌山市内の様子も描かれています。
1912年になると、漱石は中村是公に誘われるまま、鎌倉に行き、さらに塩原・日光・軽井沢・上林温泉・渋などにも出かけています。漱石は金沢の大谷繞石に宛てて、金沢にも行ってみたいと書いています。金沢は漱石が文学を志すきっかけをつくった米山保三郎の故郷。1913年に北陸線が全線開通し、信越線経由で金沢へ行けるようになることを承知していたのでしょう。金沢へは、すでに1898年、米原から敦賀経由で鉄道が開通しています。しかしながら、東京からは乗り換えて、何となく不便なところに思われたのでしょう。結局、漱石が金沢を訪れることはありませんでしたが、ヤンガー・ジェネレーションの芥川龍之介は室生犀星と親しくなり、1924年に犀星の故郷金沢を訪れています。
1912年に動き回った後しばらく旅行は控えられ、1915年になって漱石は津田青楓の案内で京都を楽しみ、そこでまた胃潰瘍のため寝込んでしまいました。鏡子が京都へ急行したのを機会に、漱石は鏡子に京都見物させています。これが旅行好き漱石の、最後の大旅行となりました。
11月に漱石は、また是公に誘われ、今度は湯河原へ出かけ、よほど気に入ったのか、漱石は翌1916年1月に湯治を目的に湯河原を訪れています。この二度の湯河原行きがもとになって、『明暗』の温泉行きが書かれています。
当時の東海道線は国府津から御殿場経由で沼津へ達していました。現在は東海道線が通っている湯河原や熱海へ行くには、国府津から小田原まで馬車鉄道(1888年開通)に乗り、その先、湯河原(吉浜)・熱海は人車鉄道(1895年開通)に乗らなければなりませんでした。1900年、馬車鉄道は電化されて電車になり、人車鉄道は1907年に軽便鉄道に変っていました。
『明暗』にはつぎのように書かれています。
汽車を下りた津田は、其所からすぐ乗り換えた電車の中で、又先刻会った二人伴の男を見出した。
電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、(略)彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。基点に当る停留所は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭を受取ってすぐ表へ出た。(略)彼は車室のなかで、又先刻の二人連れと顔を合せた。
この後、心細い軽便の旅が記述されています。軽便を下りた津田は馬車にするか人力車にするか迷った上、馬車で温泉場の宿へむかっています。
結局、二回目の湯河原行が漱石にとって最後の旅となり、その場面を書きながら、漱石は49年にわたる人生の旅を終えてしまったのです。
【漱石旅行年譜】
1887年
富士登山
1889年
興津(三兄と)、房総半島
1890年
箱根
1891年
富士登山
1892年
京都・堺・岡山・松山
1893年
日光
1894年
伊香保温泉(転地療養)、松島、鎌倉(参禅)
1895年
松山赴任
1896年
熊本赴任、博多・大宰府など
1897年
福岡・佐賀、小天温泉など
1899年
宇佐八幡・耶馬溪・日田・吉井、阿蘇登山
1900年
イギリス留学(~1903年)
1907年
京都・大阪
1909年
満州・朝鮮(京都に立ち寄る)
1910年
修善寺(転地療養)
1911年
長野・高田、明石・和歌山・堺・大阪
1912年
鎌倉、塩原・日光・軽井沢・上林温泉・赤倉
1915年
京都、湯河原
1916年
湯河原(湯治)