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12.「一人称」作家
名もなき人たち
『吾輩は猫である』の吾輩に名前がなかったことはよく知られている。《吾輩は猫である。名前はまだ無い。》という書き出しは、今でも時どき引用される。「名もなき人たち」などと書きながら、いきなり猫では適切ではないかもしれないが。
それでは、坊ちゃんの名前は知っているだろうか。『こころ』の先生なども、冒頭から《私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。》と書かれている。その「私」さえ、ついに名前はつけられなかった。この他にも『趣味の遺伝』や『草枕』の「余」、『坑夫』の「自分」も主人公でありながら名前はない。大雑把に言って、教師時代に書かれた小説にその傾向が強い。
名前とは何か
そもそも名前というのは、個体識別のため必要であって、人物を書き分けたり、誰かが呼ぶという場面を設定しない限り、必要ないのである。とくに漱石の小説にはその傾向が強く、必要なければ最後まで名前が出てこない。『吾輩は猫である』で、下女はずっと御三としか書かれず、最後の方で先生の細君から「清や、清や」と呼ばれて、初めてこの下女が「清」という名前がわかる。さすがに、「御三」と呼ばせるわけにはいかなかったのだろう。
『琴のそら音』の「余」も、婚約者宇野露子の母親から「あら靖雄さん!」と呼びかけられて名前がわかる。『行人』の「自分」は家族からたびたび「二郎さん」と呼びかけられている。
『こころ』では先生の奥さんの名前だけ明らかになっている。しかもかなり早い段階である。《先生は何かの序に、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静といった)先生は「おい静」と何時でも襖の方を振り向いた》。漱石はどうしてもこの奥さんの名前を読者に印象づけておく必要があったとみられる。当時、「静」という名前を聞けば、多くの人が乃木大将と共に殉じた妻の名前を思い起こしたことだろう。
『吾輩は猫である』の猫に名前がないのに、登場人物には多彩な名前が並ぶ。坊ちゃんに名前がないのに、登場人物はさまざまな渾名をつけてもらっている。たくさんの人物が絡み合う小説である『虞美人草』『三四郎』『彼岸過迄』、あるいは『それから』『門』、そして実質的に主人公が二人存在する『野分』『明暗』などは、基本的な登場人物の名前はすべて明らかになっている。
「一人称」で書く
小説では、書き手は、その時どきに登場人物に身を置いて、ものを見たり、考えたり、行動したりしながら、物語を進行していく。また時にはナレーターとして客観的に情景を描写したり、関係性を説明したりする。何人もの登場人物になり切って演じていく、その作家の能力には感心させられる。
ところが、この点において漱石は、けっして優れているとは言えない。初心者が小説を書く場合、概ね主人公が書き手の代理人である。書き手は自分が見たり聞いたり、思ったりしたことを、主人公を代弁者として語る。したがって、主人公のいないところの場面は描かれないし、描かれても主人公が聞いたり、読んだりした形になっている。他の登場人物も、主人公と関わる部分のみ描かれて、後は何を考え、何をやっているか、まったく描かれない。書き手は主人公と一体化し、時に作者なのか作品中の人物なのか判然としなくなる。おそらく漱石は「一人称」の方が小説を書きやすかったのだろう。ここに漱石の小説の特徴がある。もちろん、文豪とよばれる人たちもこのような小説は書いているし、文学作品として価値が低いことを意味するものでもないのだが。
漱石の小説では、主人公(主役)において、『吾輩は猫である』は「吾輩」、『琴のそら音』『趣味の遺伝』『草枕』は「余」、『坊ちゃん』は「俺」、『坑夫』『行人』は「自分」、『こころ』は「私」というように、日本を舞台にした小説17編のうち、ほぼ半数の8編が「一人称」で書かれている。
また、「三人称」で語られる場合でも、「一人称」に置き換えられる作品もいくつかある。『それから』における代助の青木繁評や『煤烟』評は、結局は漱石の感想である。もし漱石が代助を自分とまったく違った人格に設定するならば、作品に表される論評は違ったものになっただろう。代助や『道草』の健三を「自分」と書き直しても、何ら不都合はない。
『二百十日』では、圭さんと碌さん二人が主人公である。ところが会話文を読んでいて、どちらの言葉かわからないくらい一心同体である。二人はつねに同じ場面に立っている。漱石自身もわからなくなりそうだったのか、時おり《と碌さんは驚ろいた。》とか、《と圭さんは一寸首を捻った。》というふうに書いている。
漱石は主人公を借りて、じっくり物事を観察し、それを描写し、自分の知識を披露し、また自分の論評を展開している。『草枕』の余が語ることは、漱石の論評そのものであり、文芸評論を論文でなく、小説の体裁をとって発表していると言ってよい。「猫」があんな論評をするはずもないのだが、そんな矛盾も超越して「一つの世界」をつくり出してしまうところに、『吾輩は猫である』の魅力、成功がある。
写生文
写生文とは、対象をありのままに写す「写生」の概念を、散文にあてはめたもので、正岡子規が提唱した。漱石も子規の影響を受けて写生文に傾倒していた。もちろんどこまでが写生文で、どこから違うのか、明確な区分はないであろう。また、写生と言っても、「猫」が語るように、すべてを観察し、すべてを描写しきれるものでもない。
二十四時間の出来事を洩れなく書いて、洩れなく読むには少なくとも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹する吾輩でもこれは到底猫の企て及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従って如何に吾輩の主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄するにも関らず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのは甚だ遺憾である。遺憾ではあるが己を得ない。
また、事実、ありのままと言っても、文章として読んでもらうためには、どこかに「山」をつくる演出も必要になってくる。
「写生文」において、書き手が観察者である。観察者と観察対象は同じ平面に立つが、観察するものと観察されるものという立場の違いがある。相手が泣いていても、それに同情することはあっても、いっしょに泣くことはなく、泣いている相手を観察し、それをありのままに記録していく。感情移入なく、冷酷と言えば冷酷であるが、感情は読み手に委ねられている。漱石が写生文に傾倒したのは、観察することが好きだった、幼いうちから観察することが習慣になってからではないだろうか。漱石は養家においても、実家においても、親兄弟の中に溶け込むことができなかった。つねに傍観者として家族を観察する態度が身についてしまったのではないだろうか。
こうした態度は漱石の小説にも表れている。「探偵」である。吾輩は探偵のようにあちらこちら動き回り、それを報告している。その報告書が『吾輩は猫である』にあたるだろう。『趣味の遺伝』の余も探偵気取りである。『彼岸過迄』の敬太郎が果たした役割は、《絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の探訪に過ぎなかった》。何か盗聴器のような役割であるが、「傍観者」「傍聴者」そして「探偵」という言葉をよく表わしているように思える。実際に敬太郎は田口によって「探偵」ごっこをさせられる。『こころ』の私は先生に近づいて、しきりに先生の謎を探偵するが、ついに得られなかった。そこへ先生本人から「遺書」という形で膨大な報告書が届く。
漱石はつねに「探偵」されているという意識が強かったと言われている。「妄想」とりわけ「被害妄想」が強く、漱石精神病説を支える有力な根拠になっている。しかしながら、「探偵」に強い関心を示す漱石は、スパイがつねにスパイされているのではないかと警戒するように、つねに「探偵」されているのではないかと警戒し、些細な出来事にも即座に過剰なまでの反応を示したのではないだろうか。
漱石の観察力、文章表現力は、やはり抜群に秀でたものがある。こうした力は、もともともっている能力に加えて、俳句をつくることによって、繰り返し訓練され、高められていったと言えるのではないだろうか。対象物をよく観察し、それをそのまま、あるいは思考を込めて、短い文章に表現していく。画家が写生によって鍛えられるように、漱石は「言葉による写生」によって鍛えられていったと言える。漱石は「写生文」について、長所も短所もあり、その中に篭城して得意になり、他を軽蔑するのは誤りであると記している。そのような点をきちんとわきまえながら、漱石自身にとって、もっとも書きやすい、もっとも居心地の良い文章が「写生文」だったのだろう。
漱石は時として、自分で自分を観察した。「猫」も漱石であれば、苦沙弥先生もまた漱石であった。漱石の代理である「猫」は、自分自身である苦沙弥先生をじっくり観察し、嘲り笑っている。こうした一種の「セルフカウンセリング」が、漱石の精神状態改善に好影響を与えたかもしれない。妻に対する思いも案外素直に表現されている。
「一人称」作家の工夫
「一人称」作家漱石にとって困ったことは、一つの作品でいくつもの人格を描くことができないことである。一人称で登場する人物は一人であるから、いくつもの場面を観察することはできない。そこで漱石はその弱点を補うため、いくつかの工夫をおこなった。
『吾輩は猫である』において、漱石は「猫」になって、あちらこちら「探偵」の如く潜入し、いくつもの場面を観察している。一方、漱石は「苦沙弥先生」になって、訪ねてくる人々からいろいろな場面の報告を受けている。この「外向き」と「内向き」二つの情報収集によって、漱石は膨大な情報や場面を作品に描き込むことができた。
『こころ』では、私と先生の二人の人格を描こうとした漱石は、二つの小説で一つの作品をつくりあげた。それによって、後半の「先生の遺書」では先生が「私」という一人称で登場することができた。このような手法は、まず『彼岸過迄』で取り入れられた。敬太郎は三人称で描かれているが、「私」と置き換えても、何の不都合もない。「須永の話」に移ると、須永は「僕」と表現される。「松本の話」では松本が「僕」と語っている。さらに、「松本の話」の中で須永からの葉書文が引用され、そこでは須永が「僕」と表現される(ああ、ややこしい)。そして、「須永の話」も「松本の話」もすべて敬太郎に話されたものであり、『彼岸過迄』という小説の一貫性を保つのである。事実上、三人の「一人称」を登場させたことになる。『行人』でも、全体の中では短い部分であるが、一郎の観察者としてHさんが同行し、観察記録を手紙に記している。この部分では、Hさんが「私」と一人称で表現されている。
「一人称」作家漱石にとって異色の作品は三つである。『野分』は、漱石の小説として初めて、観察者が二人いる作品である。道也先生と高柳周作は別々の場面を歩んでおり、やがてそれがひとつに重なっていく。『明暗』でも、由雄の他にお延もまた別の場面に立って観察している。そして、漱石の小説の中でもっとも異色の作品が『虞美人草』であろう。とにかく本来なら一人称で書かれるような人物が、何人も存在する。それをみんな動かさなければならないから、漱石自身が書き手として作品中に直接顔を出す。《小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活程気の毒なものはない》。漱石がことさらに「小説」と強調するくらい、漱石は「小説を書くのだ」という気概が強かったのだろう。漱石の小説は「小説ではない」と言う人もいるようだが、漱石自身もそう感じていたのかもしれない。『虞美人草』は漱石が書いた唯一「小説らしい小説」ということができる。
『虞美人草』は職業作家としての漱石の処女作である。その前作の『野分』から、自分の作風を変えようとする意気込みがあったのだろう。結局、漱石にそのような手法は合わなかったようだが、『明暗』で再び挑戦した。『明暗』では由雄とお延という二人の人物の目を通して、物語が進行する。漱石にとって、『明暗』は『虞美人草』と並ぶ転機をかけた作品だったと言える。しかし、それは未完のまま終ってしまった。