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16.漱石と路面電車①
電車へのこだわり
電車の走るのは電車が走るのだが、何故走るのだかは電車にもわかるまい。高柳君は自分があるくだけは承知している。然し何故あるくのだかは電車の如く無意識である。
『野分』の一文です。言われてみればなるほどと思える、ある面、哲学的表現です。『吾輩は猫である』には、「無理なことを要求する」例えとして、このような文章があります。
形体以外の活動を見る能わざる者に向って己霊の光輝を見よと強ゆるは、坊主に髪を結えと逼るが如く、鮪に演説をしてみろと云うが如く、電鉄に脱線を要求するが如く、主人に辞職を勧告する如く、三平に金の事を考えるなと云うが如きものである。
『虞美人草』では、とうとう電車が屑籠にされてしまいました。宗近に出会った小野は「散歩ですか」と訊く。宗近は「うん。今、その角で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」と、急ぐと言う小野について行こうとする。しかも、小野の荷物を紙屑籠と評して、持ってやると言うのです。
「なに持って歩けるよ。電車は人屑を一杯詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。滅多な屑は入れられない」「歌反古とか、五車反古と云う様なものを入れちゃ、どうです」「そんなものは要らない。紙幣の反古を沢山入れて貰いたい」
あえて電車を持ち出さなくても良いように思えますが、「電車」「電車」です。前項でも記したように、ロンドンにおける漱石にとって、汽車も電気鉄道も何ら便宜を与えるものではありませんでした。にもかかわらず、その後の漱石はしばしば汽車や電気鉄道を作品に登場させるのです。
作品の中で路面電車に関する記述が出てくるものは、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』『野分』『虞美人草』『三四郎』『永日小品』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『硝子戸の中』『明暗』。小説12編、随筆2編。そのうち、『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『明暗』ではしばしば路面電車が登場します。とくに『彼岸過迄』では、電車がきわめて重要な役割を果たしています。『夢十夜』の第十夜にも電車が出てきますが、余程長い電車で、しかも電車へ乗って山へ行ったというのですから、市街地を走る路面電車ではなさそうです。確認したわけではありませんが、漱石ほど路面電車を書いた作家は少ないかもしれません。
路面電車の登場
日本に初めて電車が登場したのは京都より東京の方が早く、1890年、上野の博覧会場において試運転されています。けれども営業運転となると京都の方が早く、路面電車が走り始めたのは1895年2月です。4月に漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学)に赴任しています。
東京に初めて路面電車が走ったのは8年余り後の1903年8月。新橋-品川八ツ山(東京電車鉄道会社)が開通したのを皮切りに、東京市街鉄道会社、東京電気鉄道会社が相次いで路面電車を走らせ、漱石が『吾輩は猫である』を書き続けていた1905年の末には、三社合計営業キロは63kmに達しました。三社は1906年合併して東京鉄道株式会社になり、1911年、東京市に買収され、いわゆる「東京市電」になりました。漱石死後3年の1919年、東京市電の営業キロは138kmに達していました。小説家漱石が誕生し、小説をつぎつぎ発表していった時代と、東京の路面電車が誕生し、路線をつぎつぎと伸ばしていった時代は見事に一致するのです。
漱石は過去を書くより、むしろ現在を書く作家です。どちらかというと新らしもの好き。そのような漱石ですから、発展する路面電車は、関心をかき立てる、ワクワクさせるものだったのでしょう。東京は日本の首都であり、新しいものは何でも東京にある。それだけに東京は目まぐるしく動き、やかましい。漱石にとって、路面電車はそのような東京の象徴だったと考えられます。
漱石の作品から、いくつかの例を紹介しましょう。
まず、三四郎。《第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた》。初めて東京へ出てきた三四郎は、このように率直に驚いています。
『草枕』の観海寺和尚は、東京に対する憧れが電車と結びついているようです。主人公とこんな会話をしています。
「どこで御逢いです。東京ですか」「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、一寸乗って見たい様な気がする」「つまらんものですよ。やかましくって」「そうかな。蜀犬日に吠え、呉牛月に喘ぐと云うから、わしの様な田舎者は、却って困るかも知れんてのう」「困りゃしませんがね。つまらんですよ」「そうかな」
東京に住む苦沙弥先生は、地方勤めから東京へ戻った旧友鈴木藤十郎を、「田舎者」扱いしています。迷亭も来ています。
「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。「今日は諸君からひやかされに来た様なものだ。なんぼ田舎者だって――これでも街鉄を六十株持ってるよ」(略)「株などはどうでも構わんが、僕は曽呂崎に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と主人は喰い欠けた羊羹の歯痕を憮然として眺める。「曽呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうわ、それよりやっぱり天然居士で沢庵石へ彫り付けられてる方が無事でいい」「曽呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云う。
街鉄と言うのは、東京市街鉄道会社のことで、漱石は教師をやめた坊ちゃんを技手として勤めさせています。月給は25円、家賃は6円だったそうです。
電車や自動車が走ることによって、道路はほんとうにやかましくなりました。漱石の時代はまだ、自動車が走り回る時代ではなかったので、電車はやかましさの象徴だったでしょう。そう言えば、車内もけっこうやかましかった。『明暗』に次のような記述があります。
津田の宅からこの叔父の所へ行くには、半分道程川沿の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いた所で、一時間と掛らない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、却って八釜しい交通機関の援に依らない方が、彼の勝手であった。
しかし漱石は『三四郎』で、電車が通るとやかましくなるということで、電車を追いやってしまった帝国大学の教授たちに、さりげなく皮肉を浴びせています。
非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通る筈の電車は、大学の抗議で小石川を廻る事になったと国にいる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端にしゃがみながら、不図この事件を思い出した。電車さえ通さないと云う大学は余程社会と離れている。
都会に住んでいると、やかましさもまた、日常の一部になっているようです。東京で学生生活を送る『こころ』の私は、父の病状を案じて帰省したものの、次のように述べています。
小勢な人数には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私は行李を解いて書物を繙き始めた。何故か私は気が落ち付かなかった。あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚々々にまくって行く方が、気に張があって心持よく勉強が出来た。
日本の最先端を行く東京の象徴“電車”が、東京より8年も前に京都で開通したことは、漱石にとって許しがたいことであったようです。漱石は『虞美人草』で、京都の電車に対してこんな悪口を言って逆襲しています。京都から東京へ戻る汽車の中で、甲野と宗近の会話。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗った様な気がしない」と宗近が言う。「又夢窓国師より上等じゃないか」と甲野が受ける。「ハハハハ第一義に活動しているね」「京都の電車とは大違だろう」「京都の電車か?あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」「乗る人があるからさ」「乗る人があるからって――余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」「ハハハハ京都には調和している」「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日の如しと云うのは賞める時の言葉なんだがな」朝になって汽車の窓から富士が見える。「(略)ちっと富士でも見るがいい」と宗近。「叡山よりいいよ」と甲野。「叡山?何だ叡山なんか、高が京都の山だ」「大変軽蔑するね」「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちぁ駄目だ」「君にはああ落ち付いちゃいられないよ」「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車位な所だ」「京都の電車はあれでも動くからいい」「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」
京都の路面電車だって、この時点で営業運転を始めて12年。名所古蹟の類にされるには、まだ早すぎる気がします。
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