日本に初めて電車が登場したのは京都より東京の方が早く、1890年、上野の博覧会場において試運転されています。けれども営業運転となると京都の方が早く、路面電車が走り始めたのは1895年2月です。4月に漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学)に赴任しています。
東京に初めて路面電車が走ったのは8年余り後の1903年8月。新橋-品川八ツ山(東京電車鉄道会社)が開通したのを皮切りに、東京市街鉄道会社、東京電気鉄道会社が相次いで路面電車を走らせ、漱石が『吾輩は猫である』を書き続けていた1905年の末には、三社合計営業キロは63kmに達しました。三社は1906年合併して東京鉄道株式会社になり、1911年、東京市に買収され、いわゆる「東京市電」になりました。漱石死後3年の1919年、東京市電の営業キロは138kmに達していました。小説家漱石が誕生し、小説をつぎつぎ発表していった時代と、東京の路面電車が誕生し、路線をつぎつぎと伸ばしていった時代は見事に一致するのです。
漱石は過去を書くより、むしろ現在を書く作家です。どちらかというと新らしもの好き。そのような漱石ですから、発展する路面電車は、関心をかき立てる、ワクワクさせるものだったのでしょう。東京は日本の首都であり、新しいものは何でも東京にある。それだけに東京は目まぐるしく動き、やかましい。漱石にとって、路面電車はそのような東京の象徴だったと考えられます。
まず、三四郎。《第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた》。初めて東京へ出てきた三四郎は、このように率直に驚いています。
『草枕』の観海寺和尚は、東京に対する憧れが電車と結びついているようです。主人公とこんな会話をしています。