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17.漱石と路面電車②
行動範囲広げた路面電車
歩くにしても、人力車に乗るにしても、所詮、人間の足です。東京の街に住んでいると言っても、人びとの行動範囲は限られていました。その行動範囲を一気に広げてくれたのが路面電車です。これらの作品が書かれた頃、漱石山房から最寄の電車停留所は新小川町(大曲)終点で、道のりは2km以上ありました。それでも、漱石自身、気分転換に、見聞を広めに、あるいはまた所用で、路面電車をおおいに利用したのでしょう。とにかく路面電車にきわめて詳しく、細かなことまで作品に描き込んでいます。
『三四郎』(1908年)・『それから』(1909年)・『門』(1910年)と続く三部作で、漱石は主人公たちを電車に乗せることで、鬱々とした日常生活から解放し、ささやかな楽しみと気分転換の機会を与えています。
いよいよ大学の講義が始まり、三四郎は律義に講義を聞いていました。そのうち出るのをやめたものもありましたが、それでも平均一週40時間程度、講義に出席していました。三四郎は断えず一種の圧迫を感じ、然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなっていきました。ある日、それを佐々木与次郎に話します。
与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十返食ったら物足りる様になるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎を打しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたら善かろう」と相談をかけた。「電車に乗るがいい」と与次郎が云った。三四郎は何か寓意でもある事と思って、しばらく考えてみたが、別にこれと云う思案も浮かばないので、「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちには自ら物足りる様になるさ」と云う。「何故」「何故って、そう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ尤も軽便だ」その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、「どうだ」と聞いた。
この後、与次郎は平野家と云う料理屋、木原店と云う寄席に三四郎を連れて行き、
又「どうだ」と聞いた。三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。(略)高等学校の前で分れる時、三四郎は、「難有う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、「これから先は図書館でなくっちゃ物足りない」と云って片町の方へ曲がってしまった。
当時の電車系統図がないので、本郷三丁目(四丁目)から新橋へ直通の電車があったかどうかわかりません。もともと本郷三丁目から須田町までは街鉄で、須田町から新橋は電鉄です。『三四郎』が書かれた時にはすでに三社合併がおこなわれていましたが、電車の系統は長く合併前の会社を引きずっていたので、与次郎と三四郎の二人は須田町で電車を乗り換えたのであろうと推察されます。それにしても、その場、その場で、相手に合った助言をする辺り、それを書いている漱石は教師としても優れた資質をもっていたのではないでしょうか。
『それから』では代助が電車で銀座へ出て来ています。
代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間があった。凡ての娯楽には興味を失った。(略)代助は旅行案内を買って来て、自分の行くべき先を調べてみた。が、自分の行くべき先は天下中何処にも無い様な気がした。しかし、無理にも何処かへ行こうとした。それには、支度を調えるに若くはないと極めた。代助は電車に乗って、銀座まで来た。朗らかに風の往来を渡る午後であった。新橋の勧工場を一回して、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。その時代助の眼には、向う側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられていた。代助は二三の唐物屋を冷かして、入用の品を調えた。その中に、比較的高い香水があった。資生堂で練歯磨を買おうとしたら、若いものが、欲しくないと云うのに自製のものを出して、頻に勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。紙包を腋の下に抱えたまま、銀座の外れまで遣って来て、其所から大根河岸を回って、鍛冶橋を丸の内へ志した。当もなく西の方へ歩きながら、これも簡便な旅行と云えるかも知れないと考えた揚句、草臥れて車をと思ったが、何処にも見当らなかったので又電車へ乗って帰った。
代助は神楽坂(袋町)に住んでいるので、神楽坂下(牛込見附)から外濠線に乗って土橋までやって来たのでしょう。土橋から新橋の勧工場(現在、博品館が建っている所)までは2~300m。この後、代助は現在の道路で言うと、中央通りを銀座8丁目から1丁目までショッピングをしながら移動し、京橋の大根河岸を通って鍛冶橋通りを西へ、東京国際フォーラム(当時、東京府庁舎)北側を通って、馬場先門までやって来たのです。鍛冶橋なら外濠線に乗ることができるのですが、それを過ぎてしまったので、代助は馬場先門から電車に乗り、小川町・九段下を経由して飯田橋で下車し、自宅へむかったと考えられます。
『門』の宗助は、弟小六の件で佐伯の叔母に手紙を出し、その足で又同じ道を戻るのが不足だったので、
ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻み付けて、そうしてそれを今日の日曜の土産に家へ帰って寐ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通には電車を利用して、賑やかな町を二度ずつはきっと往ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体と頭に楽がないので、何時でも上の空で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活ていると云う自覚は近来頓と起った事がない。(略)必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がなんだという結論に到着すると、彼は其所に何時も妙な物淋しさを感ずるのである。そう云う時には彼は急に思い出した様に町へ出る。(略)だから宗助の淋しみは単なる散歩か観工場縦覧位なところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にも拘らず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠たりと落付いている様に見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧みた。出勤刻限の電車の道伴程殺風景なものはない。革にぶら下がるにしても、天鵞絨に腰を掛けるにしても、人間的な優しい心持の起った試は未だ嘗てない。(略)宗助は駿河台下で電車を下りた。
この後宗助は駿河台下一帯でウインドショッピングをして、日が限って来たので、又電車へ乗って帰宅しています。買ったものといえば、1銭5厘の達磨型護謨風船1個のみでした。
困ったことに、路面電車ができて行動範囲を広げた人たちの中には、こんな人たちもいたようです。『永日小品』には漱石の家に泥棒がはいった様子が描かれています。
昼過には刑事が来た。座敷へ上って色々見ている。桶の中に蝋燭でも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶まで検べていた。まあお茶でも御上がんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。泥棒は大抵下谷、浅草辺から電車でやって来て、明くる日の朝又電車で帰るのだそうだ。大抵は捉まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割り振るのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ。――警察の力なら大抵の事は出来る者と信じていた自分は、甚だ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。
下谷区、浅草区は今日では台東区になっています。台東区民には見逃せない一文かもしれません。
ところで、東京の地下鉄で乗り間違えた経験をお持ちの方もいるかもしれませんが、当時も路面電車の路線が増え、複雑になってくると、やはり乗り間違える人もあったようです。『三四郎』には、そんな三四郎の失敗談が記されています。
実を云うと三四郎はかの平野家行以来飛んだ失敗をしている。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、序に飯田橋まで持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換えて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行った事がある。それより以来電車はとかく物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いているから安心して乗った。
本郷三丁目(四丁目)から電車に乗った三四郎は、神保町で下りるところを飯田橋まで乗り過ごしてしまった。小川町で乗り換えた記述がないので、当時電車は新小川町(大曲)まで直通運転されていたと考えられます。飯田橋で外濠線に乗り換えた三四郎は、今度は錦町三丁目で下りるところを乗り過ごし、竜閑橋か常盤橋あたりで気づいて外濠沿いに一ツ橋まで引き返しています。通常、乗り過ごせば、逆方向の電車で戻るはず。外濠線に乗り換えるなど、電車路線に精通した人間でなければ考えつかないことです。三四郎の迂闊を描くつもりが、思わず知識を披露してしまった漱石の迂闊と言えるでしょう。
東京に生活するようになって、日の浅い三四郎はもちろん、『虞美人草』の井上孤堂先生は東京生れながら、京都の生活が長く、東京に戻って住むようになったものの、すっかり変わってしまった東京について行けないようで、電車でも失敗をしています。
格子ががらりと開く。古の人は帰った。「今帰ったよ。どうも苛い埃でね」「風もないのに?」「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭な所だ。京都の方が余っ程いいね」「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日の様に云っていらしったじゃありませんか」「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」(略)「今日はね。座布団を買おうと思って、電車へ乗った所が、つい乗り替えを忘れて、ひどい目に逢った」「おやおや」と気の毒そうに微笑だ娘は「でも布団は御買いになって?」と聞く。(略)「少し綿が硬い様ね」「綿はどうせ――価が価だから仕方がない。でもこれを買う為めに電車に乗り損なってしまって・・・」「乗替をなさらなかったんじゃないの」「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々しいから帰りには歩いて来た」
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