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18.漱石と路面電車③
貴重な資料残した漱石
漱石は、その後「都電」と呼ばれる東京の路面電車に関して、詳細な記述を残しています。それは、当時の路面電車を知る貴重な手がかりを提供してくれます。
山手線に花電車が走った話は聞かないので、電車を花で飾った「花電車」と言うのは、路面電車特有のものかもしれません。私の子どもの頃にも、お祝い事があると、花電車が走りました。1907年、上野でおこなわれた東京勧業博覧会で、花電車の走ったことが『虞美人草』に描かれています。ひょっとしたら、東京における花電車の「初めて」かもしれません。
花電車が風を戴って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。
当時、交通信号機はなかったし、路面電車のポイントも遠隔で切り替えることはできませんでした。そこで電車が分岐する交差点では、旗振りやポイントマンが活躍していたことが漱石の作品からわかります。
『草枕』では、日露戦争の戦地へ向かう久一さんを川舟で吉田の停車場まで見送る場面で、
日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何等の説明をも求めなかったのは幸いである。
『虞美人草』では、電車の行き交う街角の様子。
電車が赤い札を卸して、ぶうと鳴って来る。入れ代って後から町内の風を鉄軌の上に追い捲くって去る。按摩が隙を見計って恐る恐る向側へ渡る。茶屋の小僧が臼を挽きながら笑う。旗振の着るヘル地の織目は、埃が一杯溜って、黄色にぼけている。
『彼岸過迄』では、小川町交差点で田川敬太郎が探偵させられている場面で、旗振りとポイントマン両方が登場しています。
彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見做して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じ様に立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴の如く振り分ける分別盛りの中年者であった。その内で何時出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
旗振りは正式には「信号人」で、夜間は色燈で電車の整理をした。ポイントマンは正式には「転轍人」。交通信号機の設置試行は漱石死後の1919年、上野広小路交差点でおこなわれたが、うまくいかず、1930年、京都駅前などに設置された自動交通信号機が日本における実用化第一号になりました。この分野でも東京は京都に先を越されたことになるのです。
『野分』では高柳周作が電車の中での遺失物を探しに行った話しが出てきます。日比谷公園で大学時代の親友中野輝一に出会った高柳は、
「いくら天気がよくっても、散歩なんかする暇はない。今日は新橋の先まで遺失品を探がしに行ってその帰りがけに一寸序でだから、此所で休んで行こうと思って来たのさ」と顔を攪き廻した手を顎の下へかって依然として浮かぬ様子をする。悲劇の面と喜劇の面をまぜ返えしたから通例の顔になる筈であるのに、妙に濁ったものが出来上ってしまった。
新橋の先とは、東京鉄道株式会社の社屋で、1906年に三社が合併するまでの東京電車鉄道会社の社屋と車庫を引き継いだものです。東京における最初の路面電車が新橋・品川間に建設された時、芝の大門通りを増上寺と反対方向に(つまり海側にむかって)引込み線が布設され、電車の車庫と社屋がつくられました。明治40年東京市十五区番地界入地図芝区にも、東京電車會社の文字と引込み線の表示が記されています。浜松町駅は1909年に開業したので、『野分』が書かれた1907年には浜松町駅はまだ開設されていませんでした。
「遺失品て、何を落したんだい」「昨日電車の中で草稿を失って――」「草稿?そりゃ大変だ。僕は書き上げた原稿が雑誌に出るまでは心配でたまらない。実際草稿なんてものは、吾々に取って、命より大切なものだからね」(略)「大方車掌が、うちへ持って行って、はたきでも拵えたんだろう」「まさか、然し出なくっちゃ困るね」「困るなあ自分の不注意と我慢するが、その遺失品係りの厭な奴だ事って――実に不親切で、形式的で――まるで版行におした様な事をぺらぺらと一通り述べたが以上、何を聞いても知りません知りませんで持ち切っている。あいつは二十世紀の日本人を代表している模範的人物だ。あすこの社長もきっとあんな奴に違ない」「ひどく癪に障ったものだね。然し世の中はその遺失品係りの様なのばかりじゃないからいいじゃないか」
電車の車庫はその後、東京市営、東京都交通局と引き継がれ、都電廃止にともないバス車庫に転換。現在は民間駐車場になっています。長方形の敷地はそのままなので、今でも車庫の空間がよくわかります。東京都交通局時代の社屋も残されています。なお、現在、世界貿易センタービルが建っている敷地の一部も、電車庫になっていました。
漱石は電車をめぐって、当時の世相も描きが出しています。東京電車鉄道会社(電鉄)・東京市街鉄道会社(街鉄)・東京電気鉄道会社(外濠線)の三社は1906年合併して東京鉄道株式会社になりました。乗換えは便利になったものの、それと引き換えに料金が値上げされることになり、その年の夏、「電車料金値上反対運動(電車事件)」が起こったのです。『野分』では、演説会で演説するという白井道也と妻との間で、つぎのような会話がなされています。
「人を救うって、誰を救うのです」「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから・・・」「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」「だって、もしあなたが、その人の様になったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、些とは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」
つぎつぎと路線が建設されていく東京の路面電車。それによって東京が変っていきます。『こころ』では、父の病気が悪化して帰郷した私が父を励ましています。もちろん父は死病に罹っている事をとうから自覚していました。
「そんな弱い事を仰しゃっちゃ不可せんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃる筈じゃありませんか。御母さんと一所に。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新らしい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないと云って可い位です」私は仕方がないから云わないで可い事まで喋舌った。
そのような私が「先生」と呼ぶ人が、小石川の下宿へ引っ越して来た当時、後楽園の横から小石川の台地へ上がる辺りはつぎのような状態でした。
電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。
本郷台・小石川台へ通じる坂道は、路面電車を走らせるため、勾配を緩やかにした新しい道路がつくられました。漱石のこのような描写も、当時の東京を知る貴重な資料になります。そして、東京における路面電車の延伸、路線の変化に関しても、漱石は貴重な記述を残してくれました。
電車布設にともなって道路が拡幅されていく。そのため土地が買収されるという話題が『行人』に描きこまれています。
自分が東京を立つ前に、母の持っていた、或場末の地面が、新たに電車の布設される通り路に当るとかでその前側を幾坪か買い上られると聞いたとき、自分は母に「じゃその金でこの夏みんなを連て旅行なさい」と勧めて、「また二郎さんのお株が始まった」と笑われた事がある。
『明暗』では、江戸川橋から早稲田までの電車延伸の様子がつぎのように書かれています。主人公津田由雄の叔父藤井の家に行くには、電車を江戸川橋で下りて、右へ江戸川を渡ります。ある日、藤井の家を訪ねる津田は、
彼は何時もの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻き挘って、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊まっている一群の人々を見た。
漱石は工事の様子さえ作品に描き込んでいます。
『それから』の代助は、歌舞伎座へ芝居見物に来た帰り、嫂の勧めを斥けて、茶屋の前から電車に乗っています。
数寄屋橋で乗り易え様と思って、黒い路の中に、待ち合わしていると、小供を負った神さんが、退儀そうに向うから近寄って来た。電車は向う側を二三度通った。代助と軌道の間には、土か石の積んだものが、高い土手の様に挟まっていた。代助は始めて間違った所に立っている事を悟った。「御神さん、電車へ乗るなら、此所じゃ不可ない。向側だ」と教えながら歩き出した。神さんは礼を云って跟いて来た。代助は手探でもする様に、暗い所を好加減に歩いた。十四五間左の方へ濠際を目標に出たら、漸く停留所の柱が見付った。神さんは其所で、神田橋の方へ向いて乗った。代助はたった一人反対の赤坂行へ這入った。
歌舞伎座の前を通って数寄屋橋へむかう電車は、旧街鉄系の路線で、築地方面から数寄屋橋を通り、新宿や青山へむかいます。代助は神楽坂下(牛込見附)まで行くので、数寄屋橋で外濠線に乗り換える。外濠線は循環路線になっているので、どちらを回っても良いのですが、代助はいつも赤坂見附を経由していたのだろうと思われます。
代助は数寄屋橋で電車を下り、何の苦もなく外濠線の停留所に待っていました。ところが日々変貌を遂げる東京のこと、前回と事態は一変していたのです。『それから』が書かれていた1909年、電車専用高架線(現、山手線)が品川駅から烏森駅(現在の新橋駅)まで開通し、有楽町にむけて工事が進められていました。とくに外濠線土橋停留所付近の路線は高架線の用地にかかったり、工事の関係でレールを撤去、移設せざるを得ない状況にありました。このため、外濠線は数寄屋橋・虎ノ門(琴平町)間の路線で、つぎのように路線変更されていたのです。
【従来の路線】
数寄屋橋・土橋・内幸町、日比谷公園の南側から虎ノ門を通って、琴平町。
【工事中の路線】
数寄屋橋・日比谷、日比谷公園の北側から霞ヶ関・虎ノ門を通って、琴平町。
これにともなって、外濠線数寄屋橋停留所の位置が変更になっていたのに、代助は気がつかなかったのです。
当時の資料がないので、具体的にどのように変更されていたか文中からはわかりにくいのですが、数寄屋橋の有楽町側でも高架線工事がおこなわれており、工事の状況に応じて変更が繰り返されていたと思われます。
電車専用高架線は1910年、有楽町駅、さらに建設中の東京駅前を迂回して呉服橋駅(仮駅)まで開通しました。1908年から工事が進められていた東京駅(東京中央停車場)は1914年12月開業しています。
工事が完成し、数寄屋橋・土橋間は通行できるようになったものの、内幸町側は道路がなくなってしまったため、芝区内に新路線が建設されています。
【新路線】
数寄屋橋・土橋・櫻田本郷町・南佐久間町・琴平町。
1964年の東京オリンピックを知っている人ならば、めまぐるしい変貌に、生え抜きの東京人でさえ道に迷った経験をもっているかもしれません。漱石の時代の東京も、電車路線がつぎつぎにつくられ、市区改正によって道路整備も進められ、めまぐるしく変貌していました。東京に住み慣れた代助のような人でも、電車の失敗をしているのです。
その代助は青山の実家への行き帰り、外濠線と青山通りを通る電車を利用しています。ところがある日、実家から帰宅する代助は塩町行の電車を利用しています。
「何分宜しく」と頼んで外へ出た。角へ来て、四谷から歩く積りで、わざと、塩町行の電車に乗った。錬兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽が、真赤になって広い原一面を照らしていた。それが向うを行く車の輪に中って、輪が回る度に鋼鉄の如く光った。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、広かった。日は血の様に毒々しく照った。代助はこの光景を斜めに見ながら、風を切って電車に持って行かれた。重い頭の中がふらふらした。終点まで来た時は、精神が身体を冒したのか、精神の方が身体に冒されたのか、厭な心持がして早く電車を降りたかった。代助は雨の用心に持った蝙蝠傘を、杖の如く引き摺って歩いた。
塩町(現、四谷三丁目)で電車を降りた代助は、津守から士官学校前(現、防衛省)を通って濠端へ出て、本来なら砂土原町へ曲るところを直進して、牛込見附(神楽坂下)へむかっています。
ところで、梅雨空のある日、代助は歩く距離が長くなるにもかかわらず、青山の実家から帰宅する時、どうしてわざわざ塩町経由を選んだのでしょうか。青山一丁目から信濃町まで電車が開通したのは1905年。信濃町から塩町まで開通したのは1910年頃とされています。『それから』が書かれたのは、1909年。同年起きた日糖事件のことが書かれているので、時代設定はリアルタイムです。とすれば、『それから』が書かれた頃、電車で塩町へ行くのは不可能なことになります。
ここで、かならずしも明確でない信濃町・塩町間の電車開通年を、作品から逆に特定することができるのではないでしょうか。『それから』は1909年6月から10月まで連載されています。少なくとも梅雨の6月までには、電車が開通していたと考えられるのです。漱石はこの新路線にさっそく主人公を乗せてみたかったのでしょう。「わざと、塩町行きの電車に乗った」と言う表現も、それを裏付けています。いかにも漱石らしい!漱石の作品から、はっきりとしなかった路線の開通年を知ることもできるのです。
東京市電はやがて東京都電になり、1962年に最盛期を迎えた(41系統、営業キロ213km)が、その後路線の短縮・廃止が相次ぎ、1972年、荒川線(早稲田―三ノ輪橋)を除き、都電は姿を消してしまいました。「電車大好き人間」の漱石が知ったら、さぞかし残念がることでしょう。