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19.漱石と路面電車④
神田小川町の探偵ごっこ
本郷台町の下宿に住む田川敬太郎は、学校を出たがこれといった職がなく、何とか職を得たいと思っています。敬太郎の友人須永市蔵は、得ようと思えば良い職を得ることができるにもかかわらず、職に就こうとも思わない。そんな須永を羨ましく、また憎々しく思いながらも、敬太郎は須永から離れられないのです。
敬太郎は「叔父田口が職探しに動いてくれそうだ」という須永の言葉に望みを託します。そして敬太郎は田口によって、じつにバカバカしい探偵ごっこをさせられるのです。そのことが結果的に就職へとつながるのですが、『彼岸過迄』では、探偵ごっこの舞台となった神田小川町界隈と電車のようすが、じつに詳しく描写されています。
速達便で届いた田口からの依頼はつぎのようなものでした。
今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好の男がある。それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長い脊の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子があるからその特徴を目標に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。
敬太郎は田口の手紙に不安を感じます。
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下で、乗降に忙がしい多数の客の中から、指定された局部の一点を目標に、これだと思う男を過ちなく見付出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、丁度役所の退ける刻限なので、丸の内から只一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数だけでも大したものである。それに外と違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具えるやらして、電燈以外の景気を点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定に入れなければなるまい。
小川町の賑わいが伝わってきます。現代的感覚で言えば、夕刻の銀座四丁目交差点で特徴だけ教えられた面識のない人を探せと言う指令です。いよいよ敬太郎の神田小川町での探偵ごっこが始まります。さっそく現地へ行ってみましょう。
やがて目的の場所へ来た時、彼は取り敢えず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分程間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。其所には交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍から、真直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめに掛った。
本郷から来た電車(本郷三丁目―薩摩原)は三田線へ入ってから停まります。赤煉瓦建の青年会館(東京基督教青年会)の少し手前です。敬太郎はそこから引き返し、道路(現、靖国通り)を横断し、交差点の北へ立ちます。東京基督教青年会は2003年、江東区に移転し、現在は住友不動産神田ビルが建っています。交番の位置は現在の本郷通りの真ん中辺りです。靖国通りは駿河台が南へ突き出しているため、小川町で彎曲していますが、当時も同様であったことが、この一文からわかります。この後、連載日数で言うと12日分に亘って、小川町における敬太郎の探偵ごっこの様子が続くのです。
赤い郵便函から五六間東へ下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入った。此所にさえ待っていれば、仮令混雑に取り紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、又目標の鉄の柱を離れて、四辺の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造の瀬戸物屋があった。(略)その隣りは皮屋であった。(略)又次の店に移った。そうして瑪瑙で刻った透明な兎だの、(略)美くしく並んでいる宝石商の硝子窓を覗いた。敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工の店先まで来た。
三田線から本郷へむかう電車は交差点を右折してから停まります。三田方面から来る人を見張るなら、ここで待てば良い。安心して敬太郎は、瀬戸物屋(住吉屋)、皮屋、宝石店(金石舎)、勧工場(天下堂)、唐木細工屋(青木屋)などを見て廻わります。天下堂は現存するので、どの辺りまで来たかわかります。その時、敬太郎は道の向う側にも電停のあるのに気がつくのです。第三の停留所発見!敬太郎は道を横切り、唐物屋(松屋)の前まで行きます。現在はちょうど横断歩道があるので、それを渡って、松岡小川町ビル前まで来れば良いのです。佐藤診療所へ続く小路も確認できます。
その時後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側で留ったので、若しやという心から、筋違に通を横切って細い横町の角にある唐物屋の傍へ近寄ると、其所にも一本の鉄の柱に、先刻のと同じ様な、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念の為この角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、何れも万世橋の方から真直に進んで来るので彼は漸く安心した。これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうという積で、彼は足の向を更えに掛った途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、又敬太郎の立っている傍で留った。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気が付いた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、又右へ曲っても先刻彼の検分して置いた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、何方へ降りるのだか、彼にはまるで見当が付かない事になるのである。(略)彼は自分の住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていた為、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気が付かずにいた自己の迂闊を深く後悔した。(略)すると其所へ江戸川行の電車が一台来てずるずると留まった。誰も降者がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちに又車を出そうとした。敬太郎は錦町へ抜ける細い横町を脊にして、眼の前の車台には殆んど気の付かない程、此所にいようか彼所へ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然馳け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除ける様にして、ハンドルへ手を掛けた運転手の台へ飛び上がった。敬太郎の驚ろきが未だ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出して既に動き始めた。飛び上がった男は硝子戸の内へ半分身体を入れながら失敬しましたと云った。
第三の電停には予想通り両国方面から青山行き(青山―両国―青山、循環運転?)、九段経由新宿行き(新宿―尾張町―両国―九段上―新宿、循環運転)がやって来ます。安心した矢先、三田線から曲って来る電車がある。敬太郎はびっくりしてしまいます。
当時巣鴨方面には小石川原町まで電車が開通していました。巣鴨橋まで延伸されたのは『彼岸過迄』(1912年1月1日~4月29日連載)の連載が終わった翌日の1912年4月30日であるとされています。つまり連載中は「巣鴨行」の電車は走っていなかったことになります。したがって漱石の記述は誤りとの指摘があります。しかし、それ以前に三田線から左へ曲る線路が建設され、薩摩原(三田)から春日町、さらに白山下、というように巣鴨方面にむかって路線が延伸されており、巣鴨方面という意味で、「巣鴨行」という表示が使われていたとしても不思議はないのです。
当時の電車停留所は交差点を越えたところに設置されたようで、小川町の停留所は全部で三ヵ所あったことがわかります。さて、どちらの電停で待とうかと思案しているところへ、江戸川行き(江戸川橋――両国・亀沢町)が停まり、急いで電車に乗ろうとした男に突き飛ばされ、その拍子に敬太郎の持っていた洋杖は蹴飛ばされ地面に落ちてしまいます。男は佐藤診療所へ通じる小路から飛び出して来たとみられます。拾おうとして見ると、洋杖の蛇の頭が東向きに倒れており、敬太郎はそれを、方角を教える指標と感じて、結局、洋杖の指し示す瀬戸物屋前の小川町停留所で見張ることにします。この頃すでに漱石は佐藤診療所に痔疾治療で通院していたと考えられ、ひょっとしたら、突き飛ばしたのは漱石自身であったかもしれないし、突き飛ばされたのが漱石だったのかもしれません。とにかく、漱石はこの停留所から江戸川行きの電車に乗って、終点の江戸川橋で下車するのです。
1910年頃から病気、さらにひな子の死など、苦難が立て続けに襲い、電車に乗ることもなかったであろう漱石が、久々に小川町電停に立って、「巣鴨行」を見つけた時の驚きと喜び。漱石はそれをさっそく作品の中に書き込んでいったのではないでしょうか。
やがて敬太郎はいっこうに電車に乗ろうとしない一人の女に注目し始めます。外套ははっきり霜降とわからないが、帽子は中折で、年恰好とも田口の伝えた相手と似た男が電車を降ります。敬太郎はこの男女を尾行することに決めます。男女は西洋料理屋へはいります。
二人は又歩き出した。敬太郎も壺入のビスケットを見棄ててその後に従がった。二人は淡路町まで来て其所から駿河台下へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。(略)それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入をする家であった。
宝亭とは、神田淡路町にあった西洋料理屋多加羅亭。軍人たちもよく利用していたようです。この後、宝亭の様子や、店の中で男女の言動をうかがう敬太郎の様子が描かれています。
表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電燈の光を後にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、又は中川の角に添って連雀町の方へ抜けようが、或は門からすぐ小路伝いに駿河台下へ向おうが、何方へ行こうと見逃す気遣はないと彼は心丈夫に洋杖を突いて、目指す家の門口を見守っていた。
洋服屋は米屋という屋号、そして中川は牛肉屋。連雀町は現在の神田須田町一丁目・神田淡路町二丁目の一部。男女はかなり経って店を出て来ました。
二人は最前待ち合わした停留所の前まで来て一寸立ち留まったが、やがて又線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似た。すると二人は又美土代町の角を此方から反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人は又歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、其所にも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍へ寄って立った。彼等は又三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気が付いた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。
女はここから電車に乗って、三田方面に向かいます。男は、
それから足の向を変えて又三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前で留った。其所は敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した記憶の新らしい停留所であった。(略)この電車で何処へ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。
こうして敬太郎は、男を追って、江戸川橋まで電車に乗り、さらに雨の中、人力をかって矢来交番の下まで来て、そこで男を見失うのです。
ところで、西洋料理屋(多加羅亭)を出たあとの行動にどうしても実情と合わない記述があります。男女は小川町の電車通りを横切って美土代町側に移る。角を曲って神田橋方面へ南に行けば、まもなく三田線に乗車することができる停留所である。ここは敬太郎が本郷から来て下車した停留所です。ところがどうしたことか、漱石は神田橋の通りを横断させて、錦町側に移し、そこから女を三田線に乗せているのです。ここには停留所がないはず。女を見送った男は、この後、道路を横断することなく、交差点の角を左折して、江戸川行が停まる停留所に来ています。ないはずの停留所からの道順としては確かなので、やはり停留所の位置を勘違いしたのはないでしょうか。熟知した小川町交差点の電停の位置を間違えたとしたならば、漱石にしては珍しい迂闊と言えるでしょう。
ところで漱石はどうして神田小川町を「探偵ごっこ」の舞台に選んだのでしょうか。それは、当時、神田小川町は東京の代表的な繁華街で、電車の系統も多く、「探偵ごっこ」を仕組むには好都合だったからではないでしょうか。
小川町を通る電車の系統は当初、「本郷三丁目――三田(薩摩原)」「大曲(新小川町)――両国・亀沢町」「本郷三丁目――小川町――大曲(新小川町)」の三つでした。その後、電車路線の急速な新設にともない、変遷をとげていきます。まず、1907年に九段下・九段上間が開通すると、「新宿――両国」「青山――両国」(ともに銀座尾張町を経由する循環運転)が加わったものと推定されます。1910年に「本郷三丁目――春日町――伝通院前――大曲」の路線が開通すると(『それから』の記述をもとにすると1909年開通)、「本郷三丁目――小川町――大曲」の系統は廃止され、1911年になると、大曲――江戸川橋が開通し、「江戸川橋――亀沢町」の運行が始まっています。新小川町から三田方面へ行く系統はなく、新小川町から大手町へ通勤する『門』の宗助も、小川町で乗り換えています。したがって、三田線を大手町から小川町へ来て、左折する線路はなく、左折する電車もなかったのです。『彼岸過迄』ではこの「左折路線」が大きな鍵を握っています。
神保町から春日町、さらに白山上、小石川原町と路線が延伸されたのは1910年です。これを三田線に直結するため、小川町交差点に「左折路線」が新設されます。ところが不思議なことに、1909年が設定時期の『門』で、宗助が大手町から駿河台下まで電車で来て、神田駿河台の歯医者へ行っています。つまり、1909年には、「左折路線」がつくられ、三田線から神保町へむかう系統の運行が始まっていたことになるのです。「本郷三丁目――春日町――大曲」も『それから』をもとにすると、1909年には開通していたとみられます。ことごとく、一般的に知られている開通年次より1年早い。そして、この年次を使用すると、『彼岸過迄』の「巣鴨行」も理解しやすいのです。漱石は遠い過去を振り返って書いているわけではありません。リアルタイムで書く作家です。漱石の小説から、逆に東京における路面電車の開通時期を特定できるかもしれません。
なお、神保町から春日町さらに巣鴨方面にむかう電車は、1921年頃、神保町から一ツ橋を経由して神田橋に至る路線が新設され、小川町を経由せず神田橋へ至り、三田線に入るようになっています。(このルートが今日の都営地下鉄三田線のルートにあたります。)
『彼岸過迄』の連載が開始される1912年の二年以上前に、三田線を北行して小川町で左折する線路がつくられていた。しかし「本郷三田間を連絡する」電車ばかり乗っていた敬太郎は、迂闊にも左折路線の存在を知らなかった。漱石はそんな設定をしたのではないでしょうか。
漱石が作品を書いていた時代は、三社時代から合併、さらに市営化と移り変わっていく時期です。路線がつぎつぎと新設されていく。東京に住んでいても、少し電車に乗らなければ、もう変ってしまって戸惑ってしまう時代でした。漱石の作品には、電車の乗り間違えや、停留所の乗り場間違いの描写がいくつか出て来ます。電車好きの漱石もこんな過ちを何回か犯して、一人苦笑していたのかもしれません。
『彼岸過迄』の神田小川町交差点の一件は、漱石の電車に対する並々ならぬ関心を示すもので、電車の系統を作品の推理に取り入れた漱石は、西村京太郎の推理小説の先駆と言えるのではないでしょうか。
【追記】
私が作成した「漱石時代の東京路面電車路線系統図(推定)」(1912年頃)は、『漱石と歩く東京』147ページに掲載されています。