第三の電停には予想通り両国方面から青山行き(青山―両国―青山、循環運転?)、九段経由新宿行き(新宿―尾張町―両国―九段上―新宿、循環運転)がやって来ます。安心した矢先、三田線から曲って来る電車がある。敬太郎はびっくりしてしまいます。
当時巣鴨方面には小石川原町まで電車が開通していました。巣鴨橋まで延伸されたのは『彼岸過迄』(1912年1月1日~4月29日連載)の連載が終わった翌日の1912年4月30日であるとされています。つまり連載中は「巣鴨行」の電車は走っていなかったことになります。したがって漱石の記述は誤りとの指摘があります。しかし、それ以前に三田線から左へ曲る線路が建設され、薩摩原(三田)から春日町、さらに白山下、というように巣鴨方面にむかって路線が延伸されており、巣鴨方面という意味で、「巣鴨行」という表示が使われていたとしても不思議はないのです。
当時の電車停留所は交差点を越えたところに設置されたようで、小川町の停留所は全部で三ヵ所あったことがわかります。さて、どちらの電停で待とうかと思案しているところへ、江戸川行き(江戸川橋――両国・亀沢町)が停まり、急いで電車に乗ろうとした男に突き飛ばされ、その拍子に敬太郎の持っていた洋杖は蹴飛ばされ地面に落ちてしまいます。男は佐藤診療所へ通じる小路から飛び出して来たとみられます。拾おうとして見ると、洋杖の蛇の頭が東向きに倒れており、敬太郎はそれを、方角を教える指標と感じて、結局、洋杖の指し示す瀬戸物屋前の小川町停留所で見張ることにします。この頃すでに漱石は佐藤診療所に痔疾治療で通院していたと考えられ、ひょっとしたら、突き飛ばしたのは漱石自身であったかもしれないし、突き飛ばされたのが漱石だったのかもしれません。とにかく、漱石はこの停留所から江戸川行きの電車に乗って、終点の江戸川橋で下車するのです。
1910年頃から病気、さらにひな子の死など、苦難が立て続けに襲い、電車に乗ることもなかったであろう漱石が、久々に小川町電停に立って、「巣鴨行」を見つけた時の驚きと喜び。漱石はそれをさっそく作品の中に書き込んでいったのではないでしょうか。
やがて敬太郎はいっこうに電車に乗ろうとしない一人の女に注目し始めます。外套ははっきり霜降とわからないが、帽子は中折で、年恰好とも田口の伝えた相手と似た男が電車を降ります。敬太郎はこの男女を尾行することに決めます。男女は西洋料理屋へはいります。
こうして敬太郎は、男を追って、江戸川橋まで電車に乗り、さらに雨の中、人力をかって矢来交番の下まで来て、そこで男を見失うのです。
ところで、西洋料理屋(多加羅亭)を出たあとの行動にどうしても実情と合わない記述があります。男女は小川町の電車通りを横切って美土代町側に移る。角を曲って神田橋方面へ南に行けば、まもなく三田線に乗車することができる停留所である。ここは敬太郎が本郷から来て下車した停留所です。ところがどうしたことか、漱石は神田橋の通りを横断させて、錦町側に移し、そこから女を三田線に乗せているのです。ここには停留所がないはず。女を見送った男は、この後、道路を横断することなく、交差点の角を左折して、江戸川行が停まる停留所に来ています。ないはずの停留所からの道順としては確かなので、やはり停留所の位置を勘違いしたのはないでしょうか。熟知した小川町交差点の電停の位置を間違えたとしたならば、漱石にしては珍しい迂闊と言えるでしょう。
ところで漱石はどうして神田小川町を「探偵ごっこ」の舞台に選んだのでしょうか。それは、当時、神田小川町は東京の代表的な繁華街で、電車の系統も多く、「探偵ごっこ」を仕組むには好都合だったからではないでしょうか。
小川町を通る電車の系統は当初、「本郷三丁目――三田(薩摩原)」「大曲(新小川町)――両国・亀沢町」「本郷三丁目――小川町――大曲(新小川町)」の三つでした。その後、電車路線の急速な新設にともない、変遷をとげていきます。まず、1907年に九段下・九段上間が開通すると、「新宿――両国」「青山――両国」(ともに銀座尾張町を経由する循環運転)が加わったものと推定されます。1910年に「本郷三丁目――春日町――伝通院前――大曲」の路線が開通すると(『それから』の記述をもとにすると1909年開通)、「本郷三丁目――小川町――大曲」の系統は廃止され、1911年になると、大曲――江戸川橋が開通し、「江戸川橋――亀沢町」の運行が始まっています。新小川町から三田方面へ行く系統はなく、新小川町から大手町へ通勤する『門』の宗助も、小川町で乗り換えています。したがって、三田線を大手町から小川町へ来て、左折する線路はなく、左折する電車もなかったのです。『彼岸過迄』ではこの「左折路線」が大きな鍵を握っています。
神保町から春日町、さらに白山上、小石川原町と路線が延伸されたのは1910年です。これを三田線に直結するため、小川町交差点に「左折路線」が新設されます。ところが不思議なことに、1909年が設定時期の『門』で、宗助が大手町から駿河台下まで電車で来て、神田駿河台の歯医者へ行っています。つまり、1909年には、「左折路線」がつくられ、三田線から神保町へむかう系統の運行が始まっていたことになるのです。「本郷三丁目――春日町――大曲」も『それから』をもとにすると、1909年には開通していたとみられます。ことごとく、一般的に知られている開通年次より1年早い。そして、この年次を使用すると、『彼岸過迄』の「巣鴨行」も理解しやすいのです。漱石は遠い過去を振り返って書いているわけではありません。リアルタイムで書く作家です。漱石の小説から、逆に東京における路面電車の開通時期を特定できるかもしれません。
なお、神保町から春日町さらに巣鴨方面にむかう電車は、1921年頃、神保町から一ツ橋を経由して神田橋に至る路線が新設され、小川町を経由せず神田橋へ至り、三田線に入るようになっています。(このルートが今日の都営地下鉄三田線のルートにあたります。)
『彼岸過迄』の連載が開始される1912年の二年以上前に、三田線を北行して小川町で左折する線路がつくられていた。しかし「本郷三田間を連絡する」電車ばかり乗っていた敬太郎は、迂闊にも左折路線の存在を知らなかった。漱石はそんな設定をしたのではないでしょうか。
漱石が作品を書いていた時代は、三社時代から合併、さらに市営化と移り変わっていく時期です。路線がつぎつぎと新設されていく。東京に住んでいても、少し電車に乗らなければ、もう変ってしまって戸惑ってしまう時代でした。漱石の作品には、電車の乗り間違えや、停留所の乗り場間違いの描写がいくつか出て来ます。電車好きの漱石もこんな過ちを何回か犯して、一人苦笑していたのかもしれません。
『彼岸過迄』の神田小川町交差点の一件は、漱石の電車に対する並々ならぬ関心を示すもので、電車の系統を作品の推理に取り入れた漱石は、西村京太郎の推理小説の先駆と言えるのではないでしょうか。
私が作成した「漱石時代の東京路面電車路線系統図(推定)」(1912年頃)は、『漱石と歩く東京』147ページに掲載されています。