石川啄木(1886~1912年)は漱石の弟子で言えば、小宮豊隆(1884年生)と“ヤンガー・ジェネレーション”と言われる松岡譲(1891年生)などのちょうど間くらいの生まれである。
1902年、啄木は文学を志し、初めて上京した。啄木はかねてから惹かれていた与謝野鉄幹を訪れ、主宰する「新詩社」の社友となった。翌年一旦帰郷したが、1904年になって再び上京した。しかし、堀合節子との結婚が決まり、翌年帰郷した。この時、汽車賃さえない啄木は鉄幹宅を訪れ、餞別として15円もらった。この金で啄木は10円のヴァイオリンを買い、盛岡近くまで行きながら、自分の結婚式には出席しなかった。
しばらく故郷で働いた啄木は、新天地を求めて北海道に渡り、函館・札幌・小樽・釧路と1年程転々とした後、1908年に上京を果たした。4月27日、函館から単身船で横浜に着いた啄木は、翌日東京に着いて、千駄ヶ谷の「新詩社」にむかった。こうして啄木の3度目の東京生活が始まった。啄木はまもなく生田長江や森田草平と会い、赤心館の金田一京助の部屋に泊まっていたが、空き室が出たので、5月4日から赤心館に下宿するようになった。この赤心館の3畳半の部屋で、6月23日夜から25日までに250首程の歌をつくり、その後つくった歌とともに『明星』に発表された(1910年12月に発刊された『一握の砂』にまとめられた)。
1909年3月1日、労を取ってくれる人があって、啄木は幸運なことに東京朝日新聞校正係として就職することができた。月給25円。当時大学卒の初任給が35円くらいだったから、けっして悪くない。4月3日から、啄木はローマ字で日記をつけ始める。それは、妻子・母といっしょに喜之床の二階に住むようになる6月16日まで続いている。啄木がこの時期どうしてローマ字で日記を書いたのか、読んでみればわかるが、ローマ字で書かれた日本語というのは、まことに読みにくい。読んでいて途中で嫌になる。別の言い方をすると読まれにくい。この間、啄木は足繁く浅草十二階下の私娼窟に通い続けていた。そしてその様子を克明に、赤裸々に日記につけていた。当時の啄木は朝日新聞社からの給料の他、印税なども入って、月収は50円に達していたとみられる。ところが啄木はその金も使い果たし、借金を重ねていた。
1910年7月1日、啄木は社用を兼ねて漱石を見舞った。京橋区滝山町にある朝日新聞社から漱石が入院する長与胃腸病院まで、山下門から帝国ホテルの脇を通って800m程である。初対面の二人はお互いどのような印象をもっただろうか。翌年、8月7日、啄木一家は小石川区久竪町に転居する。この時、啄木は森田草平から7円の見舞金をもらったばかりか、鏡子からも7円の見舞金を受取っている。おそらく、一人では払いきれない森田が、鏡子に無心して半分払わせたのであろう。
「働けど働けど……」とは裏腹に、「借りても借りても我が暮らし楽にならず」、じっと手をみながら、「つぎはどこからどんな手口で借金しようか」と考えたのではないかと思いたくなるような啄木である。鉄幹の好意による汽車賃でヴァイオリンを買った啄木である。欲しいと思えば買い、遊び歩き、好き放題して、生活費に困り、下宿代も滞納。支払いに追われて、借金をする。あちらこちらから借金をするが、とりわけ中学の先輩金田一京助は自分の本や衣服を売ってまで用立てている。京助の息子春彦は、石川啄木がほんとうは石川五右衛門の子孫ではないかと思ったとか。
啄木が残した克明な借金メモによると、借金総額は1372円50銭に達すると言う。これだけの金をよく貸してくれる人がいたものである。良き時代であるとともに、わかっていても金を出させてしまう不思議な力を啄木はもっていたのだろう。さすがに、久竪町に転居した頃には、医薬代の出費がかさむようになっていた。1912年1月22日の啄木の日記には、