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14.漱石と藤村操・岩波茂雄
第一高等学校の生徒であった藤村操は、1903年5月22日、華厳の瀧から投身自殺を図った。傍らの木に彫られた遺書「巖頭之感」には、「不可解」の一語もみられる。人生不可解は、芥川の「唯ぼんやりした不安」とも共通する面がある。自殺動機の真相はわからないが、漱石は藤村の英語の授業を担当しており、自殺直前の授業で、「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っている。漱石は教師にはむかないと思っていたが、自分の授業や教育に対しては自負心をもっていた。その自分の授業が一人の若者を死に追いやったのではないか、漱石は責任を痛感すると共に、自尊心もまた傷つけられたのではないだろうか。この頃から、漱石の神経衰弱と、家庭内暴力が激しくなり、妻子との別居生活にまで発展していった。
藤村の自殺は、漱石の心を深く傷つけたかもしれないが、『吾輩は猫である』『二百十日』『坑夫』にはこの事件を念頭においたとみられる記述があり、その中でしだいに昇華されていったように思われる。
藤村の自殺は社会的にも大きなショックを与え、後を追うようにして華厳の瀧から投身自殺を図ろうとした者が四年間で185名にのぼり、うち40名が実際に亡くなっている。第一高等学校に在籍していた岩波茂雄も、藤村の自殺にショックを受け、結果的に落第、退学処分の道を歩むことになった。再起して東京帝大に学んだ岩波は、やっと教職に就いたものの、向いていないと失意のうちに退職し、今度こその再起が書店創業であった。
1913年、神田高等女学校(現、神田女学園)の教職を退いた岩波茂雄は、南神保町16番地(現、神田神保町2-3、岩波ブックセンター)に古書籍店岩波書店を開業した。その翌年(1914年)、松岡陽子によると、岩波は漱石を訪ね、漱石の作品を出版させてくれと言った数日後、今度は漱石の本を出すのに金を貸してくれと言って来た。結局、妻鏡子の進言もあって、満鉄の株を、契約書を交わして貸したという。こうして10月、『こころ』が出版された。漱石は「岩波書店」の看板文字も書いて寄贈している。
一高で漱石の教えを受け、その後も長く親交をもった安倍能成は、藤村の妹恭子と結婚し、また同期の岩波と親しく交流していた。藤村の自殺を引き金に一高を中退した岩波が、若き日に深い傷を心に負ったまま歩む先生が主人公の一人である『こころ』を、岩波書店の処女出版としたのは、藤村を仲立ちに不思議な巡り合わせと言えるだろう。
漱石がいなければ、あるいは岩波茂雄が漱石と巡り合っていなければ、今日の岩波書店はなかったであろう。