ここで私はまた疑問をもってしまいました。美禰子の行った教会はカトリックではないか。美禰子のモデルは平塚らいてう(雷鳥)であると言われています。漱石は美禰子の容姿に関してかなり細かな描写をしていますが、確かにらいてうに似ています。らいてうがカトリックの教会へ通っていたことを考えると、美禰子が行った教会は、どうしてもカトリック(加徒力)でなければならないのです。
じつは漱石も作品の中でこんな仕掛けをしています。初めて三四郎が美禰子の家を訪れた場面で、《向うにある鏡と蝋燭立を眺めている。妙に西洋の臭いがする。それから加徒力の連想がある。何故加徒力だか三四郎にも解らない》。ところが中央会堂も弓町本郷教会もプロテスタントの教会です。
それでは、美禰子が行った教会はどこなのか。私は森田草平が書いた『煤煙(煤烟)』にヒントを見出しました。草平にあたる要吉、らいてうにあたる朋子が顔を出している金葉会は猿楽町の教会でおこなわれています。この教会のモデルは小栗坂を下りたところにあるカトリック神田教会(天主公教会、猿楽町六番地、1874年創設)で、赤煉瓦の建物でした。朋子が来るのを教会向いの珈琲店の二階からうかがっていた要吉は、遅れて来た朋子が《殆んど側目も振らず眞直に道を歩いて、教会の玄関を上って行った。間もなく又姿を現して、石段の上に立ったまヽ外面を見廻して居る》のをみつけるのです。
おそらく漱石は美禰子が通う教会を、らいてうが通うカトリック神田教会を念頭に置きながら、場所的には真砂町に近い弓町本郷教会辺りに設定したのではないでしょうか。さすがに、カトリックとプロテスタントを混同するわけにいかず、場所も名称もあいまいにとどめています。
カトリック神田教会は、附属の女学部をもっていることが『煤煙(煤烟)』にも記されています。金葉会にも三名出席していると言います。この女学部が教会西側にある女子仏英和学校(1881年創立)で、現在の白百合学園です。関東大震災後、女学校は九段へ移転しましたが、教会の方は現在まで位置を変えていません。神田教会は暁星学園創設にも深い関わりをもっており、漱石の息子たちは九段の暁星学園に通っています。