このページのPDF版はコチラ→
21.「どこ?」の楽しみ②
美禰子の会堂はどこ?
前へ立って、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往ったり来たりした。ある時は寄り掛かってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つ積りである。(略)忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。
これは三四郎が教会から美禰子の出てくるのを待つ場面です。この教会を中央会堂とする説があります。
漱石は『琴のそら音』で中央会堂の名を登場させています。婚約者の宇野露子がインフルエンザではないかと、不吉な予感にかられ、翌日すぐ、四谷坂町にある露子の家を訪れた主人公の靖雄。《「あの露子さんは――」》と聞いた靖雄に対して、露子の母親が、《「今顔を洗っています、昨夜中央会堂の慈善音楽会とかに行って遅く帰ったものですから、つい寝坊をしましてね」》と答えています。
露子が行った中央会堂とは春木町二丁目22番地(現、本郷三丁目37番)にあり、当時の牧師は平岩愃保。現在の名称は日本基督教団本部中央教会。どっしりした建物が建っています。
ところが、私は『三四郎』に登場するこの教会を、中央会堂であると、どうしても思えないのです。三四郎が里見の家をあとにする二度目の場面をみてみましょう。
三四郎は美禰子の住む里見家の玄関でよし子と出くわします。よし子は今、兄の所へ行くところだと言います。
三四郎は一所に表へ出た。(略)美禰子の会堂へ行く事は始めて聞いた。何処の会堂か教えて貰って、三四郎はよし子に別れた。横町を三つ程曲ると、すぐ前へ出た。
三四郎は何処の会堂か教えて貰っているので、漱石は中央会堂だけでなく、本郷三丁目交差点周辺にいくつかのキリスト教教会があることを承知していたと考えられます。それでもあえて中央会堂とするならば、追分の兄の所まで行くよし子は、本郷三丁目交差点まで三四郎といっしょに来たはずです。ところが、里見の家を出て、三四郎とよし子はすぐに別れているのです。それから横町を三つ程曲って着く教会といえば、弓町本郷教会(旧、弓町二丁目32番地)です。この教会は中央会堂より四年ほど早い1886年に海老名弾正によって設立されています。
加徒力の連想がある
ここで私はまた疑問をもってしまいました。美禰子の行った教会はカトリックではないか。美禰子のモデルは平塚らいてう(雷鳥)であると言われています。漱石は美禰子の容姿に関してかなり細かな描写をしていますが、確かにらいてうに似ています。らいてうがカトリックの教会へ通っていたことを考えると、美禰子が行った教会は、どうしてもカトリック(加徒力)でなければならないのです。
じつは漱石も作品の中でこんな仕掛けをしています。初めて三四郎が美禰子の家を訪れた場面で、《向うにある鏡と蝋燭立を眺めている。妙に西洋の臭いがする。それから加徒力の連想がある。何故加徒力だか三四郎にも解らない》。ところが中央会堂も弓町本郷教会もプロテスタントの教会です。
それでは、美禰子が行った教会はどこなのか。私は森田草平が書いた『煤煙(煤烟)』にヒントを見出しました。草平にあたる要吉、らいてうにあたる朋子が顔を出している金葉会は猿楽町の教会でおこなわれています。この教会のモデルは小栗坂を下りたところにあるカトリック神田教会(天主公教会、猿楽町六番地、1874年創設)で、赤煉瓦の建物でした。朋子が来るのを教会向いの珈琲店の二階からうかがっていた要吉は、遅れて来た朋子が《殆んど側目も振らず眞直に道を歩いて、教会の玄関を上って行った。間もなく又姿を現して、石段の上に立ったまヽ外面を見廻して居る》のをみつけるのです。
おそらく漱石は美禰子が通う教会を、らいてうが通うカトリック神田教会を念頭に置きながら、場所的には真砂町に近い弓町本郷教会辺りに設定したのではないでしょうか。さすがに、カトリックとプロテスタントを混同するわけにいかず、場所も名称もあいまいにとどめています。
カトリック神田教会は、附属の女学部をもっていることが『煤煙(煤烟)』にも記されています。金葉会にも三名出席していると言います。この女学部が教会西側にある女子仏英和学校(1881年創立)で、現在の白百合学園です。関東大震災後、女学校は九段へ移転しましたが、教会の方は現在まで位置を変えていません。神田教会は暁星学園創設にも深い関わりをもっており、漱石の息子たちは九段の暁星学園に通っています。
© 2017-2021 Voluntary Soseki Literature Museum