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22.「どこ?」の楽しみ③
切支丹坂はどこ?
竹早町を横ぎって切支丹坂へかかる。何故切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふと先達てここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽だと笑った事を思い出す。(略)昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。
『琴のそら音』でこのように描かれた「切支丹坂」。「切支丹坂」の名称は、谷むこうの小日向台に、切支丹屋敷があったことに由来します。江戸時代、宗門改役井上政重の下屋敷があり、1646年、切支丹を投獄する牢屋がつくられ、切支丹屋敷と呼ばれるようになりました。新井白石がシドッチを尋問したのもこの屋敷で、それをもとに『西洋紀聞』が書かれています。宗門改役廃止にともない切支丹屋敷も廃止されたのが1792年です。
武田勝彦は『漱石の東京』で、漱石が『琴のそら音』で描いたのは「切支丹坂」ではなく、「庚申坂」で、正真正銘の「切支丹坂」は通称「幽霊坂」と呼ばれる坂であるとしています。そして漱石を、《切支丹坂に就いては黒星》と断定しているのです。
それでは「幽霊坂」はどこにあるのか。「庚申坂」を下り、茗荷谷の谷底を流れる川に架かる「獄門橋」を渡り、そこから小日向台に上る坂。それが「幽霊坂」。
漱石の白星
武田説は正しいのか。漱石はほんとうに黒星なのか。
『1883年測量に基づく1886年発行五千分の一地図』を見てみましょう。この地図には、「庚申坂」にあたる所に「切支丹坂」と記されています。もちろんこの地図は誤記がいくつかあるため、信じ込むわけにいかないのですが、決定的であるのは、武田の言う「幽霊坂」に該当する坂道が存在しないのです。
小日向台へ上る坂道は、武田の言う「幽霊坂」の上り口から、傾斜を緩やかにするため、斜めに崖を上って行きます。これが「浅利坂」で、「切支丹坂」などとともに、江戸時代から存在する坂道です。
『1896年調査東京市小石川区全図』になると、「幽霊坂」に該当する坂道が記されています。つまり、「幽霊坂」というには、1883年から1896年の間につくられた新しい道と言うことになります。このような坂道が、江戸時代から有名な「切支丹坂」であるはずがありません。あきらかに、漱石の白星。
漱石はこの新しくつくられた坂(幽霊坂)のことを正確に描いています。
坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりから又向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道がつづく。この辺は所謂山の手の赤土で、(略)又赤い火に出喰わした。見ると巡査である。
「新しい谷道」とは「幽霊坂」のことです。地形図をみると、小日向台に刻まれた狭く細長い谷筋に道がつくられています。真夜中、「幽霊坂」で赤い火を見た主人公靖雄は、さぞ怖かったでしょう。漱石は、「見ると巡査である」と、ストーンと落としています。
同心町の通り(現、春日通り)を横切り、茗台中学の横を抜けると、「庚申坂」の上に出ます。「庚申坂」とは坂下に庚申の碑があったところから名づけられたもので、急崖で南にむいて見晴らしが良く、牛込台が一望できます。この坂が「切支丹坂」です。
現在では、谷一面が高架になり、東京メトロ丸ノ内線の地下鉄車両基地がつくられているため、谷が浅くなって見え、さらに坂は石段になって、ジグザグに下っているので、それほど恐怖感はありませんが、漱石が作品を書いた当時は石段などなかったし、この急坂を真夜中に下るのは恐ろしいことであっただろうと想像されます。
「切支丹坂」にもっとも近い、自動車の通行できる坂は、250メートル程離れた「藤坂」です。勾配は20%で自動車もあえぎながら上ります。下りは谷底へ落ちていくような感じです。「藤坂」の名は坂下の藤寺(傳明寺)に由来するようですが、坂から富士がよく見えたので、「富士坂」とも呼ばれています。
この真闇な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がるまでがちと気味がわるい。
「切支丹坂」を下りると茗荷谷で、地下鉄車両基地の下を、かなり長い地下道を通ってくぐり抜けると、「幽霊坂」と呼ばれる坂が茗荷谷町(現在の小日向一丁目)にむかって上っています。地下道の中程の地点に、かつて「獄門橋」が架かっていました。江戸時代からの「浅利坂」は地下鉄線建設にともない廃止されてしまいました。
直線距離で2キロ程。二つの谷を越え、靖雄が流星の如く吾家へ飛び込んだのは十二時近くでした。