『1883年測量に基づく1886年発行五千分の一地図』を見てみましょう。この地図には、「庚申坂」にあたる所に「切支丹坂」と記されています。もちろんこの地図は誤記がいくつかあるため、信じ込むわけにいかないのですが、決定的であるのは、武田の言う「幽霊坂」に該当する坂道が存在しないのです。
小日向台へ上る坂道は、武田の言う「幽霊坂」の上り口から、傾斜を緩やかにするため、斜めに崖を上って行きます。これが「浅利坂」で、「切支丹坂」などとともに、江戸時代から存在する坂道です。
『1896年調査東京市小石川区全図』になると、「幽霊坂」に該当する坂道が記されています。つまり、「幽霊坂」というには、1883年から1896年の間につくられた新しい道と言うことになります。このような坂道が、江戸時代から有名な「切支丹坂」であるはずがありません。あきらかに、漱石の白星。
漱石はこの新しくつくられた坂(幽霊坂)のことを正確に描いています。
「新しい谷道」とは「幽霊坂」のことです。地形図をみると、小日向台に刻まれた狭く細長い谷筋に道がつくられています。真夜中、「幽霊坂」で赤い火を見た主人公靖雄は、さぞ怖かったでしょう。漱石は、「見ると巡査である」と、ストーンと落としています。
同心町の通り(現、春日通り)を横切り、茗台中学の横を抜けると、「庚申坂」の上に出ます。「庚申坂」とは坂下に庚申の碑があったところから名づけられたもので、急崖で南にむいて見晴らしが良く、牛込台が一望できます。この坂が「切支丹坂」です。
現在では、谷一面が高架になり、東京メトロ丸ノ内線の地下鉄車両基地がつくられているため、谷が浅くなって見え、さらに坂は石段になって、ジグザグに下っているので、それほど恐怖感はありませんが、漱石が作品を書いた当時は石段などなかったし、この急坂を真夜中に下るのは恐ろしいことであっただろうと想像されます。
「切支丹坂」にもっとも近い、自動車の通行できる坂は、250メートル程離れた「藤坂」です。勾配は20%で自動車もあえぎながら上ります。下りは谷底へ落ちていくような感じです。「藤坂」の名は坂下の藤寺(傳明寺)に由来するようですが、坂から富士がよく見えたので、「富士坂」とも呼ばれています。