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15.漱石と地理
私は地理を専門としてきたため、小説を読んでいても、すぐ「設定場所はどこだろう」と思ってしまうし、実際行ってみたくなる。漱石の小説の舞台となる場所も、東京の街の中、概ね行ってみた。こうして書き上げられたのが、『漱石と歩く東京』である。
この勝手に漱石文学館においても、『漱石気分』に『漱石と旅』『漱石と電車』『「どこ?」の楽しみ』と連載が続いている。
こうした文章を書くのは、もちろん私の趣味ではあるが、書く意欲をかき立てるのは他でもない。漱石である。漱石は東京の地形を細かく把握しており、東京の地図がしっかり頭に入っている。小説の中にも、それがきちんと描き込まれている。
そのような例をひとつ紹介してみたい。
高層の文京区役所(文京シビックセンター)を取り巻くように地下鉄路線が集中している。駅名は都営地下鉄が「春日」、東京メトロが「後楽園」である。私は『漱石と歩く東京』を書くにあたって、この辺りで自転車を借りたので、どこへ行くにも、ここが起点である。東西に台地がある谷底で、小石川低地になっている。
漱石はこの辺りに住んだことはなかったが、浸水常襲地帯のようすとその原因をきちんと把握していた。漱石はこのようなところにも関心を寄せていたわけで、「地理において、漱石は秀でた感覚をもっていた」という思いを強くする。
『こころ』にはつぎのように記されている。学生時代の先生は、初冬の雨上がりふと賑やかな所へ行きたくなって富坂を下る。
南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。
ここで先生は向うから歩いて来たKと出会う。そればかりか下宿のお嬢さんまでいる。
ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです。足駄でも長靴でも無闇に歩く訳には行きません。誰でも路の真中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事に辿って行かなければならないのです。その幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。
出会ったのはおそらく、現在の地下鉄丸ノ内線に沿って、区役所南側あたりだろう。「漱石時代」にも道を横切る水路に橋が架けられ、道の両側には水路が流れていた。
区役所前に立って春日通り(国道254号線)を眺めると、西に富坂、東に真砂坂(東富坂)がみえる。ちょうど盆の底にいるような気持ちになる。小石川台と本郷台にはさまれた地域が小石川低地で、この辺りは二つの谷から流れてくる水が集まり、小石(礫)が多いところから小石川(礫川)とよばれるようになった。小石川台と白山台の間を流れてきた千川(小石川)は低地の西部を流れ、本郷台と白山台の間を流れる川は東部を流れている。この辺りでは大下水とよばれる二つの川の水が集まり、しかも南側が広大な敷地をもつ水戸徳川家上屋敷(後に工廠、遊園地)によって塞がれてきたため、一帯は水はけが悪く、浸水常襲地帯になっていた。
柳町の通りは、現在の白山通りのルートにあたる。先生はお嬢さんに道をあけたものの、ショックから自棄になり、柳町の通りへ出て、ぬかるみの道をどしどし歩いて帰宅する。賑やかな所へ行くつもりが、まったく反対の方向へ行ってしまう。この事件がやがてKを死に追いやり、後に先生をも死に追いやるきっかけとなる。後日、お嬢さんとの結婚を奥さんに申し出た先生は、事実上の承認を得て嬉しくなり、富坂を下りて、そこでまたお嬢さんと出会う。今度は水道橋の方へ曲っている。当時、小石川柳町には貧民窟が広がっており、一方、水道橋を渡れば賑やかな神田へ行くことができた。道をどちらへ曲るかが明暗を表すのは、漱石の得意とする手法である。
寺田寅彦が「日本の文学者には珍しく、科学の素養があった」と言うくらい、漱石は自然科学に対する理解力をもっていた。そればかりでなく、多くの分野において専門的な知識をもっていた。したがって、地理だけ一面的に抜き出すわけにはいかないのであるが、少なくとも漱石は「地理においてもまた、秀でた感覚をもっていた」と言えるだろう。
『野分』で高柳周作が電車の中に置き忘れたのは『地理教授法』の訳である。電車会社まで探しに行ったが出てこない。日比谷公園で親友の中野輝一に会い、西洋料理をごちそうになって、これから帰って訳さなければならないという。英文学専攻の漱石であるから、英語で書かれた書籍・論文にはたくさん接している。その中で、文学でも医学でもなく、あえて地理を作品に登場させたのは、いったいなぜだろうか。
話しは遡るが、漱石が中村是公と江東義塾で教えていた時(1886年~87年)、漱石は英語で地理書や幾何学を教えていた。