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16.交番の位置
資生堂で練歯磨を買おうとしたら、若いものが、欲しくないと云うのに自製のものを出して、頻に勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。
『それから』の一文である。資生堂にとって、はなはだ迷惑な文章である。小説なのだから、何も実名で書かなくても良いのに。そこは新聞小説で、ニュースを伝えるようなリアルさである。漱石の作品には、店の名前など実名で出て来ることが多い。この資生堂の一件、確かに今日でも「ある」「ある」で、私も好きではない。瀧山町(現、銀座6丁目)の朝日新聞社から出雲町(現、銀座8丁目)の資生堂は、近いので、漱石自身の体験でもあるのだろう。
漱石の作品に描かれている場所を訪ねていた私が、銀座の街をさっそうと(?)レンタサイクルを走らせて、資生堂の前まで来てみると、何と交番が。少しばかりそぐわない感じがして、後で明治期の地図を見てみると、そこにも交番が。ひょっとして、と思って調べてみると、この銀座の通り(中央通り、旧東海道)には、京橋たもとの1丁目、三越や服部時計店の時計塔がシンボルの銀座尾張町交差点(4丁目・5丁目)、新橋に近い銀座8丁目に交番があり、明治から現在まで時が経過しても、その位置は変わっていない。
漱石の作品を読んで、「設定場所はどこだろう?」と推理する時、私は明治以来その位置が変化していないものを目印としてよく使う。めまぐるしく変化する東京であるが、意外と変化していないものは多い。鉄道や道路の路線も基本的に過去を引き継いでいるし、神社や寺院もその位置を変えていないものが多い。そのような中で、私はこの資生堂の出来事から、交番という思いもかけないものが位置を変えていないことに気づかされた。と言っても、これは偶然の一致で、実際には、位置を変えた交番の割合の方が圧倒的に多いのかもしれない。
けれども、漱石の作品に出て来る交番は、二ヵ所ともその位置をほとんど変えていない。
牛込天神町交差点は、道路が拡幅された今でも変則的な形状をしているが、『彼岸過迄』では、つぎのように表現されている。
松本の家は矢来なので、敬太郎はこの間の晩狐に摘まれたと同じ思いをした交番下の景色を想像しつつ、其所へ来ると、坂下と坂上が両方共二股に割れて、勾配の付いた真中だけがいびつに膨れているのを発見した。
この二股に割れたと表現されているのが牛込天神町交差点で、ここに出て来る交番が矢来町交番(現、矢来町地域安全センター)である。『彼岸過迄』には、話しは前後するが、江戸川橋で電車を降りた敬太郎が、人力車に乗った松本恒三を追いかける場面でも、矢来の交番が登場する。
一本筋を矢来の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒を留めて、旦那何方へ行くんですと聞いた。
牛込天神町交差点の形状を巧みに利用した記述である。
東京大学農学部の南西角に交番がある。本郷弥生交差点で言えば北東角にあたる。交番から100メートル足らずのところに追分交差点があり、まもなく農学部の正門前になる。追分の地名は、中山道と岩槻街道(日光御成道)が分岐するところから名づけられた。現在の交番からわずかに農学部正門へ行った所に、『三四郎』に出て来る追分の交番があった。農学部校地は当時、第一高等学校の校地で、正門の位置は変わっていない。
『三四郎』に追分の交番はつぎのように登場してくる。ある日、講義を終わって下宿へ帰る三四郎。
追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出逢った。「アハハハ。アハハハ」偉人の態度はこれが為に全く崩れた。交番の巡査さえ薄笑いをしている。
東大から、追分の交番前を過ぎ、岩槻街道沿いに駒込追分町18番地(現、向丘2丁目3番)まで行った所に、三四郎の下宿があったと推定される。
交番ではないが、『吾輩は猫である』には日本堤分署が出て来る。苦沙弥先生のところに入った泥棒が捕まり、盗まれたものを返すから取りにくるようにとの、巡査の言葉がある。
九時までに来なくってはいかん。日本堤分署です。――浅草警察署の管轄内の日本堤分署です。
漱石が小説を書いていた時代、東京市内には区ごとに警察署があった。本郷区には本郷署が、東大の南端部にあった。牛込区には牛込署。そして浅草区には浅草署が、浅草寺の北、浅間神社の斜め向かい、今日と同じ場所にあった。現地名は浅草4丁目である。分署は本署の機能を分岐させたものだから、交番に比べると格付けは上であろう。
苦沙弥先生。迷亭から、日本堤分署が吉原にあることを告げられ、少々考えるが、「行くと云った以上はきっと行く」と強気を見せる。当時、吉原の入り口、見返り柳の辺りに交番があったが、武田勝彦氏によると、土手通りをはさんですぐ近くに日本堤分署があった。当時、浅草区官有地方今戸町2番地。現在の東浅草2丁目27番、東浅草小学校がある。その傍らに交番があり、かつての日本堤分署の名残と思われる。見返り柳のところにあった交番は、今日では吉原大門の傍らに移転している。
そう言えば、吉原も『吾輩は猫である』の時代と変貌しつつも、廓の形状は引き継がれている。