このページのPDF版はコチラ→
23.漱石と巡る病院
漱石は生涯、さまざまな病気に罹っているので、いろいろな病院・医者に世話になっているだろうが、年譜等で一般的に知られている病院はつぎの五つである。
東京
井上病院(眼科)、渡邊良齋診療所(歯科)
佐藤診療所(痔疾)、長与胃腸病院(胃潰瘍)
大阪
大阪胃腸病院(胃潰瘍)
東京にある四つの病院は、いずれも現在の千代田区にあり、東京メトロ千代田線や都営地下鉄三田線から近い。病院巡りなどあまりありがたくないが、四つの病院をたどってみよう。
井上病院
漱石は1891年、再びトラホームに罹り、毎日の様に井上病院に通った。ここで「銀杏返しにたけながをかけた」少女と出会ったという。ところがどういうわけか、漱石の作品に井上病院のことは書き込まれていない。
新御茶ノ水駅B1出入り口を上がる。ニコライ堂にむかって歩き始めると、右手にすぐ井上眼科病院がある。「漱石時代」の井上病院は、ニコライ堂の前を通り、お茶の水仲通りに出る右側角にあった(住所:駿河台東紅梅町11番地、現在の神田駿河台四丁目3番)。漱石が通っていた頃の井上病院は、1890年に建てられた煉瓦造4階建ての真新しい建物で、おりしもニコライ堂(日本ハリストス正教会復活大聖堂)が1891年に完成している。ニコライ堂は『それから』に登場するが、震災後、変更しながら修復したものの、当時も現状にかなり近い外観をもって建っており、ランドマーク的存在だった。
東京大学眼科学教室の創始者で、1881年に井上病院を創設した井上達也について、談話筆記『処女作追懐談』につぎのような一節がある。
しかしよく考えて見るに、自分は何か趣味を持った職業に従事して見たい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ。何故というのに、困ったことには自分はどうも変物である。(略)その時分私の眼に映ったのは、今も駿河台に病院を持っている佐々木博士の養父だとかいう、佐々木東洋という人だ。あの人は誰もよく知っている変人だが、世間はあの人を必要としている。(略)それから井上達也という眼科の医者がやはり駿河台にいたが、その人も丁度東洋さんのような変人で、しかも世間から必要とせられていた。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなってやって行きたいものと思ったのである。
しかし漱石は医者が嫌いで、建築家になろうと考える。漱石は結局作家になったが、趣味を職業とし、しかも世間に必要とされる人生を、変物のまま生き抜くことができた。彼の思いは達成されたことになる。なお、佐々木東洋は1882年に杏雲堂医院(現、杏雲堂病院)を創設した人である。
井上病院はまた、甘酸っぱい恋の匂いがする場所でもある。1891年、漱石はトラホームの治療のため毎日のように井上病院へ通っていた。鏡子の『漱石の思い出』によると、待合で落ち合う美しい若い女は、背がすらっとした細面の美しい女で、見るからに気立てが優しく、しんから親切で、傍で見ていても気持ち良い女性だった。この女性が初恋の人とは考えにくいが、漱石好みであることに間違いない。好意をもったことも頷ける。7月18日付けの正岡子規宛書簡には、
昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、――銀杏返しにたけながをかけて――天気予報なしの突然の邂逅だからひやっと驚いて思わず顔に紅葉を散らしたね。
渡邊良齋診療所
ニコライ堂の角を左折してお茶の水仲通りを行くと、右へ入る道が駿河台日本大学病院、杏雲堂病院の前を通る。井上達也と佐々木東洋という二人の変人は、すぐ近くに病院を創設したことになる。左手に高い三井住友海上駿河台ビルが見えてくる。ここはかつて西園寺公望邸があったところで、漱石はこの邸で開かれた文士招待会への出席を断っている。太田姫稲荷神社の角で右折すると、日本大学法科大学院との間あたりに渡邊良齋診療所(住所:駿河台南甲賀町19番地、現在の神田駿河台一丁目)があった。太田姫稲荷神社が聖橋袂から現在地へ移転したのは1931年であるから、「漱石時代」に神社はなかった。
彼はその日役所の帰り掛けに駿河台下まで来て、電車を下りて、酸いものを頬張った様な口を穿めて一二町歩いた後、ある歯医者の門を潜ったのである。(略)その時向うの戸が開いて、紙片を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。(略)靴を穿こうとすると、今度は靴の底が何時の間にか破れている事に気が付いた。
これは、『門』(1910年連載)の一節である。野中宗助が訪れた歯医者は、漱石自身が歯の治療に通っていた渡邊良齋診療所と推定されている。駿河台下交差点から斜めに200m足らず行ったところにあるから、宗助は白山方面に行く電車に乗って、駿河台下で下車してやって来たのだろう。普段は小川町で大曲行きに乗り換えている。
佐藤診療所
駿河台下交差点に出て、道路を横断してから靖国通りを小川町にむかって歩き始める。突き出した駿河台を迂回するように道路が彎曲しているようすがよくわかる。スポーツ用品店が目立つ。小川町交差点少し手前に松岡小川町ビルがある。この付近にかつて新宿行・江戸川橋行・巣鴨行が停車する電停があった。『彼岸過迄』の敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した停留所である。男が飛び出してきたのは、現在の松岡小川町ビル横の小路で、100m程入ったところに、佐藤診療所(住所:錦町一丁目10番地、現在の神田錦町一丁目)があった。
『明暗』で津田由雄が痔の手術を受けた病院は、作品中では「小林」となっているが、この佐藤診療所がモデルと考えられている。『明暗』から当時のようすを知ることができる。
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭の居そうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路の中程にある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った。
小路の彎曲した部分も当時のまま残っている。電停からすぐであることはつぎの一文からわかる。車夫は由雄の家へ行くため飯田町三丁目で下りるので、江戸川橋行に乗っている。
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫は又看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。
病院へ来る時と帰る時の停留所の違いが、この二つの文に表現されている。
漱石は1911年、胃潰瘍のため大阪で入院し、9月に退院したものの、痔に罹り、自宅で切開手術を受け、翌1912年春まで佐藤診療所に通院、9月に本格的な手術を受け、入院した。森成麟造に宛てた手紙には、
何の因果か帰京の翌日から肛門周炎とかいう下卑た病気になってとうとう切開しました。それが悪性なので三週間後の今日もまだ細い穴が塞がらない所があって膿が出るのです。
『明暗』では、由雄の妹婿(堀)が、「ある特殊な病気で堀の家の近くのその病院へ通っている」ことが記されている。痔も病名を伏せることがあるが、由雄と同じ病気なら「同じ」と書くであろう。特殊と書くのは性病であろうと吉本隆明は推察している。それは納得できるとして、佐藤診療所(作品中は「小林」)は、痔と性病両方の診療をおこなっていたのだろうか。
長与胃腸病院
都営地下鉄三田線内幸町駅A5出入り口を上がると、東罐興業本社が入っている幸ビル(住所:内幸町一丁目3-1)がある。ここに長与胃腸病院(胃腸病院)があった。漱石が入院した当時は、木造2階建て(1896年完成)、和式の病院で、病室も畳敷きだった。1968年、現在地(新宿区本塩町4-3)へ移転した。
1910年6月、漱石は胃潰瘍のため胃腸病院に入院した。8月になって、転地療養のため修善寺温泉菊屋旅館に逗留した。ここで漱石は大量吐血によって危篤状態に陥る(修善寺の大患、8月24日)。漱石は一命をとりとめ、10月に帰京すると、そのまま再入院した。『思い出す事など』には、
病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病に罹って、寐たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜らずに釣台に乗ったまま、又当時の病院に落ち付く運命になろうとは猶更思い掛けなかった。帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった。扶けられて汽車を下りるとわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らなかった。(略)病室は畳も青かった。襖も張り易えてあった。壁も新に塗ったばかりであった。万居心よく整っていた。(略)その夜から余は当分又この病院を第二の家とする事にした。(略)明日の朝妻が来て枕元に坐るや否や、実は貴方に隠しておりましたが長与さんは先月五日に亡くなられました。葬式には東さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末丁度貴方の危篤だった時分ですと云う。
胃腸病院は長与専斎(1838~1902年、緒方洪庵門下生)の長男称吉が1896年、日本橋に開設したわが国最初の胃腸専門病院である。その年、内幸町に移転した。長与称吉(1866~1910年)は漱石が修善寺へ発つ前日亡くなった。漱石とは一歳しか違わない主治医称吉の死は、人の生命のはかなさと皮肉を漱石に感じさせたことだろう。後を引き継いだ専斎の三男長与又郎(1878~1941年)は、その後漱石の主治医を務め、医科大学において、漱石解剖の執刀を行っている。
『思い出す事など』は1910年から1911年にかけて朝日新聞に連載されたもので、胃腸病院入院中に執筆された。意識不明の時の様子も、無意識にすべてメモしたのではないかと思われるくらい克明に記されている。『変な音』は1911年7月に二日間、朝日新聞に掲載されたもので、胃腸病院入院中の思い出が記されている。
うとうとしたと思ううちに眼が覚た。すると、隣の室で妙な音がする。(略)何でも山葵卸しでなにかをごそごそ擦っているに違ない。(略)いい忘れたが此処は病院である。賄は遥か半町も離れた二階下の台所に行かなければ一人もいない。病室では炊事割烹は無論菓子さえ禁じられている。(略)三ヵ月ばかりして自分は又同じ病院に入った。室は前のと番号が一つ違うだけで、つまりその西隣であった。(略)その時不図した事から、偶然ある附添の看護婦と口を利く様になった。(略)「そら能く大根を卸す様な妙な音がしたじゃないか」「ええあれですか。あれは胡瓜を擦たんです。患者さんが足が熱って仕方がない、胡瓜の汁で冷してくれと仰しゃるもんですから私が始終擦って上げました」「じゃやっぱり大根卸の音なんだね」「ええ」「そうかそれで漸く分った。――一体○○さんの病気は何だい」「直腸癌です」「じゃ到底むずかしいんだね」「ええもう疾うに。此処を退院なさると直でした、御亡くなりになったのは」自分は黙然としてわが室に帰った。そうして胡瓜の音で他を焦らして死んだ男と、革砥の音を羨ましがらせて快くなった人との相違を心の中で思い比べた。
漱石の解剖が行われた東京帝国大学医科大学附属医院(現、東京大学医学部附属病院)のようすは『三四郎』に描かれている。野々宮よし子が入院していて、兄宗八から頼まれて、三四郎が袷を一枚届けに行く。
御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗った。いつもの三四郎に似合わぬ所作である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。いつもなら手帳と印気壺を持って、八番教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損なっても構わないと云う気で、真直に青山内科の玄関まで乗り付けた。
当時、赤門(御守殿門)は医科大学の通用門になっていた。病院まで届けてもらいたいと頼まれた。三四郎は大いに嬉しがって、野々宮の家を後にする。
大阪胃腸病院
1902年に湯川玄洋が大阪市内の久宝寺町に開業、1904年に大阪胃腸病院として今橋三丁目に新築移転した。当時、木造三階建ての建物だった。1911年、関西講演旅行中、胃潰瘍を再発した漱石は、8月から9月にかけて、大阪胃腸病院に入院した。病院は大阪のど真ん中、淀屋橋のすぐ南で、緒方洪庵旧宅にも近い。『行人』には病院と周りのようすがよく描かれている。大阪へやって来た三沢が入院し、長野二郎が逗留中の岡田の家から駆けつける。
電車を下りて俥に乗ると、その俥は軌道を横切って細い通りを真直に馳けた。馳け方が余り烈しいので、向うから来る自転車だの俥だのと幾度か衝突しそうにした。自分ははらはらしながら病院の前に降ろされた。鞄を持ったまま三階に上った自分は、三沢を探すため方々の室を覗いて歩いた。(略)つい向うに見える物干に、松だの石榴だのの盆栽が五六鉢並んでいる傍で、島田に結った若い女が、しきりに洗濯ものを竿の先に通していた。
湯川玄洋の次女スミは小川秀樹と結婚し、秀樹は婿養子として湯川家に入った。1949年、湯川秀樹が日本人として初めてノーベル賞を受賞し、一躍有名になったのを機に、1950年、大阪胃腸病院はそれまで通称として用いられてきた湯川胃腸病院を正式名称として使用するようになった。病院は、1961年、現在地(大阪市天王寺区堂ヶ芝)へ移転した。