漱石の長女筆子の娘、松岡陽子マックレインは『漱石夫妻愛のかたち』(朝日新書、2007年)の中で、母やおじ、おば、つまり漱石の子どもたちから聞いた漱石のことを各所で記している。そこからは、漱石がどんな父親であったか、子どもたちにどのように接していたか、子どもたちがどのように感じていたか、浮かび上がってくる。
漱石には、筆子・恒子・栄子・愛子の四人の娘、その後、純一・伸六の二人の息子が生まれ、そして最後に生まれた五女ひな子は一歳半くらいで急死している。
『漱石夫妻愛のかたち』には、漱石に一番かわいがられたという四女愛子が9歳か10歳の頃、「お父さんたら、伯父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい」と言ったのに対し、笑いながら、「このやつ、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こんどはお前のことを書いてやるよ」と言ったという逸話が紹介されている。ちょうど漱石が『道草』を執筆していた頃で、実際に子どもたちのことが『道草』に登場する。
もっとも、子どもたちが登場するのは、『道草』が初めてではなく、『吾輩は猫である』において、すでに登場している。その後、小説において、子どもたちが登場することはなく、『彼岸過迄』において、急死したひな子が宵子として登場、記述もかなり長くなっている。そして、『道草』のあと、続けて『明暗』にも子どもたちが描かれている。
『吾輩は猫である』で子どもは早くも「一」で登場する。言ってみれば漱石の作家活動の当初から子どもたちは登場するのである。吾輩は子どもの寝床にもぐり込んで寝る。五歳と三歳の子ども二人が一つの布団に寝ており、その間に吾輩が割り込む。吾輩はこれを一番心持の好い時としている。ここで一騒動起きる。二人の子どものモデルは筆子と恒子である。