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17.作品の中の漱石と子どもたち
漱石の長女筆子の娘、松岡陽子マックレインは『漱石夫妻愛のかたち』(朝日新書、2007年)の中で、母やおじ、おば、つまり漱石の子どもたちから聞いた漱石のことを各所で記している。そこからは、漱石がどんな父親であったか、子どもたちにどのように接していたか、子どもたちがどのように感じていたか、浮かび上がってくる。
漱石には、筆子・恒子・栄子・愛子の四人の娘、その後、純一・伸六の二人の息子が生まれ、そして最後に生まれた五女ひな子は一歳半くらいで急死している。
『漱石夫妻愛のかたち』には、漱石に一番かわいがられたという四女愛子が9歳か10歳の頃、「お父さんたら、伯父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい」と言ったのに対し、笑いながら、「このやつ、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こんどはお前のことを書いてやるよ」と言ったという逸話が紹介されている。ちょうど漱石が『道草』を執筆していた頃で、実際に子どもたちのことが『道草』に登場する。
もっとも、子どもたちが登場するのは、『道草』が初めてではなく、『吾輩は猫である』において、すでに登場している。その後、小説において、子どもたちが登場することはなく、『彼岸過迄』において、急死したひな子が宵子として登場、記述もかなり長くなっている。そして、『道草』のあと、続けて『明暗』にも子どもたちが描かれている。
『吾輩は猫である』で子どもは早くも「一」で登場する。言ってみれば漱石の作家活動の当初から子どもたちは登場するのである。吾輩は子どもの寝床にもぐり込んで寝る。五歳と三歳の子ども二人が一つの布団に寝ており、その間に吾輩が割り込む。吾輩はこれを一番心持の好い時としている。ここで一騒動起きる。二人の子どものモデルは筆子と恒子である。
後半に入り、朝の場面がこのように描かれている。
風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗っている最中で、なかなか繁昌している。
顔を洗うと云ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれない位小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来る筈がない。一番小さいのがバケツの中から濡れ雑巾を引きずり出して頻りに顔中撫で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆる度におもちろいわと云う子だからこの位の事はあっても驚ろくに足らん。
この後、しばらく子どもたちの言動のおもしろさが綴られているが、読んでいても微笑ましく感じる。しかめっ面をした漱石と違った、ニコニコした漱石の顔が思い浮かぶ。この三番目が栄子であろう。この年、四女愛子が生まれるが、『吾輩は猫である』執筆中は三女までである。朝食が始まる。
長火鉢の傍に陣取って、食卓を前に控えたる主人の三面には、先刻雑巾で顔を洗った坊ばと、御茶の味噌の学校へ行くとん子と、御白粉罎に指を突っ込んだすん子が、既に勢揃をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。
後にこの三女子。何を思ったか招魂社へお嫁に行くと言い出す。主人が盗品を引き取りに日本堤分署へ出かけている間である。
斯様に三人が顔を揃えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
38歳の漱石は45歳になり、『彼岸過迄』。雨の降る日。矢来に住む松本は雨の降る日に訪れた来客を断るという。その理由が姪の千代子から主人公の敬太郎に告げられる。松本には十三になる女の子を頭に、男、女、男、と互い違いに、二つずつ離れて成長しつつあったが、この四人に加えて、前の年の雛の節句の前の宵に生まれた宵子がいた。ところが宵子が千代子と食事をしていた時、容態が急変し、駆け付けた医者も手の施しようがなかった。その日、雨の日だった。
その後、通夜から葬儀、火葬の場が詳しく記されている。
この宵子が、漱石の五女で幼くして急死したひな子をモデルにしていることは明らかである。漱石はこのように書いている。
「叔母さん又奮発して、宵子さんと瓜二つの様な子を拵えて頂戴。可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃ不可ないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りが出来たって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
「己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭になった」
漱石には七人の子どもがいたが、一人ひとりの子どもたちに対する思いがこの一文に込められているように、私には思える。
『道草』では、お産の場面である。夜、健三の妻が急に産気づき、下女に産婆を呼びにやったが、その間にも痛みはどんどんひどくなり、とうとう生まれてしまった。健三は何が何だかわからないままに、対処を余儀なくされる。設定上、三女の出生、漱石に置き換えれば三女栄子の出生であるが、実際には四女愛子を漱石が取り上げた体験がもとになって描かれている。調べたわけではないが、出産シーンをここまで生々しく描いた男性作家は、漱石以外、いないかもしれない。しかも、今から百年以上も前に。
「女の御子さんで」
産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。
「又女か」
健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女。二番目が女、今度生まれたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。然しそれを生ませた自分の責任には思い到らなかった。
このように書いたのは漱石であるから、漱石自身は女ばかり生まれるのには自分にも責任があると感じていたのだろう。三女でさえ「また」であるから、四女に及んではどうだったのか。しかし、少なくとも漱石は、四女を自分が取り上げたこともあって、一番かわいがっていたとも言われている。
『明暗』で、主人公津田由雄は痔の手術をひかえて叔父の家を訪ねようと、歩いて江戸川橋電停までやって来た。当時、ここが電車の終点で、早稲田にむけて線路の延伸工事がおこなわれていた。そこで津田は甥の藤井真事に出会った。徽章の着いた制帽と、半ズボン、背中に背負った背嚢。これは当時、暁星小学校に通っていた漱石の長男純一のいで立ちである。作品中でも真事を10歳くらいと設定しており、この点も純一と一致する。パリのカトリック修道院・マリア会によって設立された暁星は、フランス陸軍の制服をモデルにした制服を制定しており、制帽・制靴・制鞄も制定され、フランス語も教えていた。暁星学校は招魂社近くにあり、冬青木坂(もちのきざか)を下りると、飯田町三丁目の電停がある。津田の家もこの近くに設定されており、飯田町三丁目が最寄りの電停になる。真事もこの電車で通学している設定であろう。実際の純一もこの間を電車で通学し、自宅と江戸川橋電停の間、歩いたものと思われる。
奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語の読本を浚い始めた。ジュ、シュイ、ポリ、とか、チェ、エ、マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切を置いて読み上げる小学二年生の頓狂な声を、例ながら可笑しく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。
実際の夏目家では、このようなのどかな光景ではなく、純一・伸六という二人の息子にフランス語を教える漱石は、勉強に身が入らない二人を始終「馬鹿野郎」とどなりつけていたという(松岡陽子マックレイン)。
けれども、小宮豊隆は死の間際の漱石に関する記述の中で、
暁星の制服を着た純一がバタンと音を立てて枕元に坐ると、漱石はぱっと眼をあいて、純一を見て、にやっと笑ったのだそうである。
と、記している。