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24.「現代」を描いた作家①
漱石の小説を読んでいると、漱石が生きている「今」が描かれているように感じられる。けれども、ひょっとしてそれは私の錯覚かもしれない。そこで、『吾輩は猫である』から『明暗』まで、日本を舞台にした17小説の設定時期がいつなのか、あらためて作品を読み直してみた。
教師時代の作品
『吾輩は猫である』『琴のそら音』『趣味の遺伝』の3作品はいずれも、設定時期も発表時期も日露戦争中である。『吾輩は猫である』には、《先達中から日本は露西亜と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓である》という一文があり、『趣味の遺伝』では、新橋駅における凱旋将軍歓迎の場面や、河上浩一の戦死が描かれている。『琴のそら音』は少しわかりにくいが、インフルエンザで亡くなった若い女性の夫が、陸軍中尉で黒木軍(日露戦争時、第一軍の司令官黒木為楨の率いた軍)に所属しているという記述があるので、日露戦争中と判断される。
『坊ちゃん』(1906年発表)には戦争祝勝会のようすが出てくる。漱石が松山に赴任したのは1895年4月で、下関条約が締結された月であるから、日清戦争の祝勝会と考えられないこともないが、作中にクロパトキン(日露戦争当時ロシア極東軍総司令官。奉天会戦で大敗)が出てくることや、坊ちゃんが帰京後、街鉄(1903年設立)の技手として就職していることから、日露戦争中と考えるのが妥当である。坊ちゃんは1905年4月、四国辺の中学校に赴任し、早々に帰京。清の亡くなったのは1906年2月ということになる。坊ちゃんが清と暮らしたのはほんの短い期間であった。(なお、松山市街と道後温泉を結ぶ鉄道ができたのは、1895年8月で、漱石は開通間もないこの鉄道に乗ったのだろう。坊ちゃんも乗せている。もし、坊ちゃんの設定時期を1895年にすると、夏休みまではもたなかった坊ちゃんの教師生活では、乗ることはできなかった。港のある三津と松山市街を結ぶ鉄道は1888年に四国で初めての鉄道として開業しているので、1895年当時でも乗ることは可能であった。)漱石は坊ちゃんをほぼリアルタイムに設定したが、そのためにあらためて松山へ取材に行くことはしていないので、日露戦争に時期を設定しながらも、描き込んだ松山の街は日清戦争当時のものだったのではないだろうか。このようなことをやったためか、時間の経過、季節の変化がまるで書かれていない。ある面、不思議な小説である。そのかわり、1週間で書き上げられたこの作品は、全体に歯切れが良く、勢いがある。
『草枕』(1906年発表)は日露戦争に出征する兵士が描かれ、設定時期が日露戦争中と判断できる。それに対して、『二百十日』(1906年10月発表)は漱石の作品としては珍しく、設定時期を判断する材料がほとんどない。この作品は大部分が会話文で、何やら狂言の台本のようである。時間の経過は8月31日から9月2日までの三日間だけである。《二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している》という最後の一文を考え合わせるならば、この作品は、日露戦争も含めて、近代文明、近代社会を風刺することを目的としたもので、漱石の念頭に設定時期はなかったのだろう。漱石自身が山川信次郎と阿蘇へ登ったのは1899年である。作中出てくる恵比寿ビールは1890年に発売されているので、1899年に飲むことは可能だが、はたして阿蘇の旅館までビンに入った恵比寿ビールが来ていたかどうか疑問は残る。また、阿蘇の火口に飛び込まないよう用心という内容があり、これは1903年藤村操の華厳の滝飛び込み自殺以後でなければ出てこない表現ではないだろうか。そこであえて設定時期を考えるならば、「現時点」であり、1906年9月ということになる。
『野分』の時代設定は二点によって特定できる。一つは「この間の電車事件」である。この事件は発表前年の1906年夏に発生した東京市の電車料金値上反対運動を指している。もう一つは道也の演説の中に、「明治の40年」という言葉が出てくることである。『野分』は明治40年(1907年)発表といっても1月で、実際に執筆されたのは1906年である。「明治の40年」という言葉を、「明治になって40年くらい経った」という意味でとらえれば、設定時期1906年は妥当と言える。
朝日新聞入社後の作品
『虞美人草』は発表年におこなわれた東京勧業博覧会のようすが描かれており、設定時期は1907年と特定できる。やっかいなのは『坑夫』(1908年発表)である。作中に華厳の滝自殺(藤村操、1903年)、煙草の朝日(1904年発売開始)のことが出てくる。また、足尾銅山では、1907年、坑夫による大暴動が起きている。しかしそのことが書かれていないので、それ以前の設定と考えられる。したがって、1904年以降、1907年以前というのが設定時期で、日露戦争に関して一言も出てこないので、戦後、1906年頃とみてよいだろう。足尾鉄道開通(1912年)以前で、汽車を下りてかなりの距離を歩いている。
『三四郎』は、「日露戦争に勝って」という言葉が出てくるので、少なくとも1905年以降の設定。甲武鉄道は1904年に中野まで電化され、また飯田町から御茶ノ水まで延伸された。1906年に国有化され、甲武線とよばれるようになった。作中では甲武線と表記されているので、1906年以降とみて差し支えないだろう。設定時期を特定するできごとは記されていないが、この作品は1908年9月から12月まで連載されており、三四郎が上京し、帝国大学での生活が始まり、東京の秋を経験し、年も押し詰まってインフルエンザに罹る時期と一致している。これをそのまま設定時期とみてよいだろう。
『それから』は発表年に発生した学校騒動(東京帝国大学法科大学内に商業学科を設置するという文部省の意向に対し、東京高等商業学校の学生が抗議した事件)、日糖事件などが織り込まれ、さらに新聞に連載中の『煤烟』を読んでいるようすも書かれているので、設定時期は発表年と同じ1909年と特定できる。
『門』(1910年発表)では伊藤博文暗殺のニュースが話題として取り上げられているので、設定時期を特定できる。これをもとに考えると、宗助と御米は1907年3月下旬、東京へ戻って来た。弟の小六は中学を卒業し、高等学校に入るところだった。1908年、叔父の佐伯が急死し、1909年、佐伯家は麹町区中六番町25番地に転居した。夏休みに小六の大学進学をめぐって問題が表面化し、ここから物語が始まる。10月に伊藤博文が暗殺され、その後、小六は宗助の家に同居するようになり、年を越して1910年の春、坂井の好意もあって、小六は大学に進学することになる。3月から『門』の連載が始まる。
『彼岸過迄』の決め手はルナパークである。これは、浅草の日本パノラマ館跡地に1910年、日本版ルナパークとしてつくられたものである。翌年、失火で全焼してしまうが、それまでの間が設定時期と言ってよいだろう。ルナパークは1912年に再開園しているが、この作品が書かれたのは1912年1~4月であるので、ひな子の亡くなった1911年が設定時期としてもっとも妥当である。
『行人』は1912年12月から連載が始まったが、翌年になって漱石の胃潰瘍が悪化し、五ヶ月にわたって執筆が中断され、11月に完結した。この作品の設定時期に関して、特定できる事項はないが、二郎と父が表慶館へ行っているので、1909年以降であることは確実である。また、通常は作品を書き始める前に設定をおこなうので、1912年までが設定時期である。季節の変化から設定時期をたどると、物語は1911年夏から始まり、秋から冬、年を越え、春を迎え、6月までと推定するのがもっとも妥当ではないだろうか。帝国博品館の第二店舗(1908年開業)がすでに閉店し、映画館に変わっている。第二店舗の閉店時期は明らかでないが、この期間に閉店したと考えられる。
『こころ』(1914年発表)では明治天皇崩御のニュースが話題として取り上げられているので、設定時期を特定できる。これをもとに考えると、1907年夏休みに私は先生と鎌倉の海岸で出会った。それから二人の交流が始まった。1908年、私は大学に入学し、1911年冬、私は父の病気で帰郷する。1912年4月下旬、私は卒業論文を提出し、何とか卒業した。7月5~6日に私は帰郷したが、まもなく明治天皇が崩御、9月に入っても私の就職先は決まらず、再び東京へ出ようという矢先、乃木大将夫妻の殉死、さらに父の危篤と続く、そんな中で受取った先生からの手紙に、私は急遽東京へ向かう。この時すでに先生はこの世の人ではなかった。先生は日清戦争で戦死した軍人の未亡人(先生の妻の母)の家に下宿していたので、大学卒業は1897年頃、私より15歳くらい年上である。ずいぶん老けてみえるが、亡くなったのは三十代後半である(なお、先生の妻静の名は乃木大将夫人の名をつけたと考えられる)。
『道草』(1915発表)は、漱石がイギリス留学から帰国し、千駄木における生活を始めた時期(1903年)を追想的に描いている。この年生まれた三女栄子の出産のようす(10月)も書かれている(作品に描かれた健三の体験は、四女愛子出産時に漱石自身が体験したもの)。
『明暗』(1916発表)は電車と戦争によってほぼ特定できる。この作品では、江戸川橋まで電車が開通(1911年)し、早稲田にむけて延伸工事が進められている(開通1915年)。また、継子と見合いをした三好が、戦争前後に独逸を逃げ出した話が出てくる。この戦争は第一次世界大戦である。つまり、設定時期は1914年以後であるが、1915年になっていない。したがって、1914年というのがもっとも妥当な時期と考えられる。季節は冬にむかっていた。
まとめてみると
以上をもう一度まとめてみると、つぎのようになる。特定できる判断材料がなく、類推部分があるものに関しては「頃」をつけた。
『吾輩は猫である』(1904~05発表)設定時期1904~05
『琴のそら音』(1905発表)設定時期1905
『趣味の遺伝』(1905発表)設定時期1905
『坊ちゃん』(1906発表)設定時期1905頃
『草枕』(1906発表)設定時期1904または1905
『二百十日』(1906発表)設定時期1906
『野分』(1907発表)設定時期1906
『虞美人草』(1907発表)設定時期1907
『坑夫』(1908発表)設定時期1906頃
『三四郎』(1908発表)設定時期1908
『それから』(1909発表)設定時期1909
『門』(1910発表)設定時期1909~1910
『彼岸過迄』(1912発表)設定時期1911頃
『行人』(1912~13発表)設定時期1911~12頃
『こころ』(1914発表)設定時期1912
『道草』(1915発表)設定時期1903
『明暗』(1916発表)設定時期1914頃
結局、漱石が書いた、日本を舞台にした17小説のうち、設定時期と発表年がかなり異なるのは『道草』のみ――それでも、干支で一回り程度――で、残る作品は発表年とほぼ一致するか、せいぜい1~2年前である。漱石はまさに今自分が生きている「現代」を描いた作家であり、言い換えれば、「現在」を描いた作家である。