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25.「現代」を描いた作家②
「現在」を描いた作家漱石。それでは、その漱石が小説を書いていた、いわゆる「漱石時代」とはどんな時代だったのか。
「漱石時代」(1904~1916年)は、日清・日露の戦争を経て、明治政府の政策が一つの集大成を迎えた時代である。産業革命は重工業の段階に達し、列強との不平等な条約の改正も成し遂げたが、その一方で、強権政治はむきだしになり、大逆事件(1910年)、韓国併合(1910年)などを引き起こしていった。漱石は、そのような政治のあり方や社会の姿を率直に描き、時には鋭い批判や皮肉を加えた。
日露戦争
「漱石時代」の幕開けは日露戦争であった。作品の中で漱石はこの戦争をどのように捉えているだろうか。
『吾輩は猫である』では、《先達中から日本は露西亜と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓である》。さらに『趣味の遺伝』では、余が人を迎えに新橋駅へ来て出くわした、凱旋兵士の出迎えの場面で、《西洋人ですらくる位なら帝国臣民たる吾輩は無論歓迎しなくてはならん、万歳の一つ位は義務にも申して行こうと漸くの事で行列の中へ割り込んだ》。前を通り過ぎる凱旋将軍。《万歳がとまると共に胸の中に名状しがたい波動が込み上げて来て、両眼から二雫ばかり涙が落ちた》と、このように忠実な帝国臣民のふりをしているが、作品を通して戦意高揚の雰囲気は感じられない。『吾輩は猫である』は戦時中とは思えない、いたって平穏無事である。『趣味の遺伝』は、余が日露戦争で戦死した友人浩一の母親を少しでも慰めようと、浩一の恋人を探し出してやる内容である。国家的には名誉の戦死であるかもしれないが、息子を亡くし、落胆している母親に寄り添う作品である。同時に世話好きな漱石の一面を覗かせている。
『草枕』は日露戦争が終わった翌年に発表された。日露戦争の戦地へ向かう久一さんを川舟で吉田の停車場まで見送る場面では、
日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何等の説明をも求めなかったのは幸いである。
戦地へ赴く人に、喜んで行く人などいない。そんな漱石の思いが伝わってくる。
戦死者は英霊として招魂社(靖国神社)に祀られる。苦沙弥先生の姪雪江と、先生夫人の会話に口をはさんだ長女とん子は、《「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」》と、無邪気に話す。次女すん子、三女の坊ばまで行くと言い出す。戦時中なればこそ、日々耳にする招魂社を恰好良い兵隊さんとでも思っていたのだろう。このあたりは子どもの思い違いがテーマになっている。「思い違いをしてはいけない!」戦争を美化することの危険性を警告した一文として受取ることができる(それにしても、なぜ水道橋を渡るのがいやなのかわからない。これも、水道橋の掛樋の方を渡ると思い違いしたという設定だろうか)。
戦死者でも、軍神にまでなった広瀬中佐。『それから』ではその軍神が切られる。三千代をめぐって三角関係にある代助が平岡にこんなことを言う。二人は中学時代からの友人で、三千代は平岡の妻である。
広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加わって斃れたため、当時の人から偶像視されて、とうとう軍神とまで崇められた。けれども四五年後の今日に至ってみると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆どなくなってしまった。英雄の流行廃はこれ程急劇なものである。
広瀬中佐というと、私は万世橋駅前の像を思い出す。広瀬中佐(広瀬武夫、1868~1904年)は日露戦争時の旅順港閉塞作戦に従事。第2回作戦で閉塞船福井丸を指揮し、撤退時に行方不明になった部下杉野孫七上等兵曹を助けるため、船内を3度捜索中、ボート上でロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死した。死後、海軍少佐から中佐に昇進、日本初の軍神になった。広瀬中佐の銅像建設は海軍同期・上官らによって1904年に発議され、『それから』が執筆された翌年の1910年3月に万世橋駅前の電車通りに面して建てられた。広瀬の像は同郷(大分県竹田市)の渡辺長男、杉野の像は渡辺の実弟朝倉文夫が制作した。朝倉文夫は後に高村光太郎と並ぶ彫刻家になり、朝倉彫塑塾は今日の台東区立朝倉彫塑館に引き継がれている。
『それから』を読むと、像が完成する前、すでに広瀬中佐の人気は廃れていたようである。末永く軍神広瀬を顕彰しようとして建てられた銅像の、その後の運命は、漱石の論評を裏付けるかのようである。1931年発行の『日本地理風俗大系』(新光社)には、つぎのような記述がある。
萬世橋驛前には、歌に名高い廣瀬中佐と杉野兵曹の銅像が立ってゐるが、散々邪魔にされた上、震災後市区改正の結果、電車通りから人目につかぬ裏通りに隠されてしまったことは、時勢の變遷とはいへ寂しい感じがする。
漱石の時代にはまだ靖国通りがなかったので、小川町からまっすぐ万世橋駅前へ来て、万世橋南詰から柳原通りを通って両国橋にむかう道が表通りで、電車もここを通っていた。関東大震災後、現在の靖国通りが建設されて表通りも移り、万世橋駅前の道は裏通りになってしまった。広瀬中佐と杉野兵曹の銅像も目立たなくなり、1947年6月、撤去された。
漱石は声高に反戦を叫んだわけではない。しかし、国家が戦死者をどのように英雄視しようが、漱石は日露戦争を、さらにはいかなる戦争も、個人のレベルからは無意味なものとして捉えていた。それは戦争に勝つということにおいても……。
日露戦後の日本
東京へむかう汽車の中で男(広田先生)は三四郎に言った。《「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。(略)」》これに対して三四郎は《「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。》
戦争に勝ったといっても、人々は増税に苦しみ、多くの農民は小作料に苦しみ、労働者たちは低賃金・長時間労働に苦しんでいる。国が勝っても民が滅んだのでは何になるのか。漱石の警句は100年経った今も、色あせることがない。
日露戦争後、日本は韓国の植民地化を急速に進めていった。その先頭に立っていた伊藤博文は、1909年10月26日、ハルビン駅で暗殺された。漱石は翌年書いた『門』に、さっそくその事件を挿入し、思いをつぎのように表現している。暗殺の知らせを聞いた宗助が、
「己みた様な腰弁は殺されちゃ厭だが、伊藤さんみた様な人は、ハルビンへ行って殺される方が可いんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利いた。「あら、何故」「何故って伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうは行かないよ」
親友中村是公に対する気安さからかもしれないが、ずいぶん大胆な表現である。伊藤暗殺時、すぐそばにいた中村是公もズボン撃ち抜かれた。漱石が中村の招待で満州・朝鮮を旅行し、帰京10日後であった。漱石も伊藤も同じ鉄嶺丸で大連に渡っている。漱石は気乗りのしないまま『満韓ところどころ』を連載していたが、韓国を書かずに、年内に終了してしまった。この行為や、『門』における伊藤への態度は、韓国併合へむかう流れに対する抵抗とみることもできる。
今でも躊躇されるようなこうした文章を、漱石は朝日新聞の連載小説に堂々と書いていた。
社会主義運動の高揚と大逆事件
戦争に勝っても、人々の間には不満が渦巻いていた。講和に際して早くも日比谷焼打ち事件が発生している。翌1906年夏には電車料金値上反対運動(電車焼打ち事件)が発生。これは東京市内路面電車三社が、日露戦争にともなう通行税が経営を圧迫しているとして、合併に際して、運賃を3銭(各社毎)から4銭(均一)に、事実上値上げすることに反対して起きたもので、やはり集会参加者の中から暴徒化する者が現れ、100名以上が検挙された。
漱石はさっそくこの事件を『野分』(1907年1月発表)に書き込んでいる。演説会で演説をするという道也に対して妻が、
「人を救うって、誰を救うのです」「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから・・・」「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」
「この間の電車事件」とは「電車焼打ち事件」をさしている。ここに漱石の人間主義、個人主義がはっきりみえてくるが、当時の状況を考えれば冷や汗が出る。この時、漱石はまだ東京帝大の現職の教員であった。
道也が演説をした場所は清輝館である。妻に訪ねて来た道也の兄が話している。私はこの清輝館を、1891年開場した錦輝館(錦町三丁目18番地)がモデルであると推定している。錦輝館は1897年、関東で初めて活動写真の興業を開始したが、演説会場としても利用され、『野分』が発表された翌年の1908年には「錦輝館赤旗事件」も起きている。この事件はその後の大逆事件の引き金にもなっている。
漱石は直接的には、「赤旗事件」や、前年に発生した「足尾銅山争議」「別子銅山争議」、また1912年に起きた「東京市電スト」などを作品に書くことはなかった。しかしながら、大逆事件で処刑された幸徳秋水については、『それから』につぎのように語られている。
平岡はそれから、幸徳秋水と云う社会主義の人を、政府がどんなに恐れているかと云う事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人ずつ昼夜張番をしている。一時は天幕を張って、その中から覗っていた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失いでもしようものなら非常な事件になる。今本郷に現われた、今神田へ来たと、それからそれへと電話が掛って東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使っている。
幸徳秋水は日本で最初の社会主義研究団体「社会主義研究会」(1898年結成)に参加以来、「社会主義協会」(1900年)、「社会民主党」(1901年結党、即日解散)、「平民社」(1903年)、「日本社会党」(1906年結党)と、その結成から参加した、わが国における初期の社会主義活動家のリーダー的存在である。
『それから』が書かれたのが1909年、秋水の処刑が1911年である。こうした社会情勢を考えれば、秋水を通して国家権力にむかって皮肉を言うこと自体、きわめて危険な行為であった。『それから』に先立つ『永日小品』には泥棒が漱石の家にはいった様子が描かれている。《泥棒は大抵下谷、浅草辺から電車でやって来て、明くる日の朝又電車で帰るのだそうだ。(略)牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ》。漱石は故郷である東京牛込を、東京の中の田舎と思っている。刑事がたった三四人しかいないというのも、いかに田舎であるかということを、読者に印象づけようとするものであろう。それとともに、1909年に書かれた二つの作品を合わせ読むならば、社会主義の取り締まりに膨大な予算を使うくらいなら、もっと人民の安全のために警察予算を使えという、漱石の主張がみえてくる。1911年には、警視庁に特別高等課(特高)が設置されている。
国家主義と個人主義
このような現実を直視しながら、時流に囚われず、人間主義(ヒューマニズム)、個人主義を貫いた、そして、国家より人間個人を尊重する民主主義を貫いたのが漱石である。汽車の中で男(広田先生)は三四郎にむかって、このようにも言っている。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」(略)「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。
1914年晩秋、漱石は『私の個人主義』と題して、学習院輔仁会で生徒に講演した。学習院は1908年に現在地へ移転しているから、漱石の講演も目白の校舎でおこなわれたことになる。漱石は自分が学習院への就職に失敗したエピソードも交えながら、学生達をしだいに漱石の世界へ引き入れていく。講演は大きくは第一編と第二編に分かれ、第一編では他人本位から自己本位(自我本位)への転換が語られているが、ここでは後半の第二編に注目してみよう。
漱石はまず、学習院の生徒にむかって、学習院は社会的地位の好い人が這入る学校だから、
①貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使える。権力とは自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に押し付ける道具(あるいは道具に使いうる利器)となる。
②金力も貧民より余計に所有している。これは自己の個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なもの。
しかし、我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはいけない。ところが貴方がたは、貧乏人より権力・金力を余計にもっているのだから、まさしく妨害し得る地位に将来立つ人が多い、としたうえで、つぎの三点を心して欲しいと述べている。
①自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。
②自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。
③自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。
そして、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来る。この三つのものは、貴方がたが将来において最も接近し易いものであるから、どうしても人格のある立派な人間になっておかなければいけない。
つまり漱石は、権力と金力をもつ人が人格を備えていなければ、社会的に極めて危険だと訴えている。そして、こうした人格を備えたうえでの個性の発展、自由の享有が、漱石の言う「個人主義」である。したがって、個人主義は国家に危険をおよぼすものではない。
最後に漱石は、国家主義にまで一歩踏み込んで論じている。要約すればおよそつぎのようになる。
国家が危うくなれば誰だって国家の安否を考えるのだから、戦争や侵略の憂いがなければ国家的観念が少なくなり、個人主義が這入ってくるのは理の当然。今(講演当時)はまだ、国家存亡の危機ではなく、国家国家と騒ぎ立てる必要はない。人格の修養を積んだ人は、危急存亡の場合、個人の自由を束縛し個人の活動を切り詰めても国家のために尽くすのは天然自然。だから、個人主義と国家主義はいつも矛盾し、撲殺しあうものではない。そして漱石は自分自身、国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に個人主義でもある、と述べている。結びにあたって漱石は、こうつけ加える。
国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。
「道徳教育が必要だ」と言った時、それはどちらかというと、国家的道徳の必要性を説くことが多い。「近頃の若い者は、どうも道徳がなっていない」という場合、個人的道徳をさす場合が多い。これがごちゃ混ぜにされて、「道徳教育」の賛否が議論されるが、漱石ははっきりと、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見えると述べている。つまり、一人一人が高い道徳性を身につけていくこと、人格的にも高まっていくことはおおいに努めなければならないが、国家的道徳などというものはことさら騒ぎ立てて身につけさせなければならないものではない。国家的道徳がなければ国が守れないというが、国家的道徳のあるなしに関わらず、国家存亡の危機に際した時には、国民は立ち上がるものだ。漱石は個人的道徳の見地から許せない行為に関しては、生徒をも叱り飛ばしたが、国家的道徳の強要に対しては断固抵抗する態度を示した。
漱石が求めたのは「個」としての確立であり、時として「市民」とよばれる「一人の人間」の確立である。そして個人的道徳は市民的道徳と置き換えることもできる。国家の枠組みをはずし、「個」の集まりとしての人類全体、つまり「地球市民」としてとらえるならば、それは世界主義とよぶことができる。一人一人が高い道徳性(市民的道徳)を身につければ、高い道徳性を身につけた地球市民ができあがる。そうなれば、戦争など起きてこない。国家国家と騒ぎ立てる必要もなくなってくる。国家的道徳の方は徳義心などないのだから、それを優先する限り、いつまで経っても戦争はなくならない。
今から百年程前、第一次世界大戦と後によばれるヨーロッパの戦争が火蓋を切った年に、学習院でおこなわれた漱石の講演は、今も色あせていないように、私には思われる。
漱石はなぜ捕まらなかったか
日本は滅びると言い、伊藤は殺されて良かったと言い、社会主義でも正しい道であれば良いと言い、幸徳秋水を追い回す警察を皮肉り――これほどのことを書いたり、言ったりして捕まらなかったのは、大日本帝国憲法下において漱石くらいかもしれない。
そのような漱石もまったく身に危険を感じなかったかというと、そうではないだろう。『野分』で、演説をするという道也に妻は、
「だって、もしあなたが、その人の様になったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、些とは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」道也先生はしばらく沈吟していたが、やがて、机の前を立ちながら「そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川幕府の時代じゃあるまいし」と云った。
その徳川幕府の時代じゃあるまいことが、明治も終ろうとする時期に、大逆事件として起ってこようとは、漱石も思ってもみなかっただろう。しかし、道也がしばらく沈吟し、強く打ち消すように言っているところをみると、徳川時代のような弾圧が来ることを、漱石はうすうす予感していたのではないだろうか。民主主義者の漱石も、家庭では時として独裁者であり、暴君であった。妻に対してまさに亭主関白であった。道也の言動にもその片鱗が表れている。しかしながら漱石はまた、妻の思いも作品の中で語らせることを忘れなかった。
ところで、漱石はなぜ捕まらなかったのか。私は三つの要因を考えてみた。
第一は、何よりも漱石が結社しなかった。あるいは結社に加わらなかったということである。何を言おうが、個人の力だけでは、国家権力にとってそれほど脅威ではなかった。
第二は、大逆事件など引き起こされながら、全般的に国家権力による弾圧はまだ限定的で、権力の側にも徳義心や人格をもった人物がいて、《単に政府に気に入らないからといって、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせ》る事態は抑制されていた。そのこととも関連するが、漱石自身が教養人、人格者として、権力の側からも評価され、学習院における講演に招いてくれる人がいるくらい、幅広い人脈をもち、そう簡単に弾圧できない人物であった。これが第三の要因である。
そして、あえてもう一つ加えるなら、当時「朝日新聞」は一定の知識人を読者にもち、漱石の作品は彼らの国家に対する不満を昇華する、ガス抜きの役割を担っていたのではないだろうか。
漱石が結社に属しなかったのは、自らの個人主義によるものであった。国家が個人に優越することがあり得るのと同様に、属する団体が個人に優越することはじゅうぶんにあり得る。それは漱石の望むところではなかった。漱石は講演の中で、自分が説く個人主義は、党派心がなくって理非がある主義であるとしたうえで、
朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために妄動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。
と、述べている。個人主義というのは、一人一人が「個」として生きていくのであるから、孤独で淋しいものである。それは、まさに現代人が抱える悩みであり、病理の根源になる。そしてそれとともに漱石は、教養ある知識人を超えて、社会運動に身を投ずることができない自分に対して、つねに苛立ちをおぼえ、孤立感を深めていったのかもしれない。権力と金力による不正にたちむかう時、個人がいかに無力であるかも、漱石はよく知っていたであろう。
もちろん、漱石はけっして一人孤高を守っていたわけではない。多くの人と接し、人脈ももっていた。けれども漱石の求めるものは団体結社ではなく、ある種のサロンであった。それが木曜会であった。そこでは隔てなくお互いに自分の意見を述べることができ、議論できた。森田草平は、
話題はおのずと先生の作品に対する弟子どもの無遠慮な批評が多きを占めるようになった。先生もなかなかそれに屈しないで、若い者と一緒になって渡り合われたが、たまには屑く冑を脱がれることもあった。その蟠まりのない対話が私どもには何とも云われない程嬉しかった。(略)とにかく先生は家庭的に寂しい人であった。
と記している。