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26.漱石が描いた「現代」生活①
私が初めてテレビを観たのは実験段階で、受像器のブラウン管に画像が映し出されていた。私は母の背中におぶられて、それを観た。つぎに、東京上野のアメ横近くの旅館で、実際に放送されているテレビを初めて観た。そう言えば、名古屋にテレビ塔ができたというので、上った。やがて地方にもテレビが入ってきたが、床屋や友人の家に観に行った。電気洗濯機や電気掃除機が我が家にもやって来るようになり、この時ほど、自発的、積極的に掃除したことはない。こんなにうまいものはないと、チキンラーメンを食べた。つぎつぎと新しいものが登場して、ワクワクさせるような時代、それが高度経済成長期であった。
それに似たような時代が、漱石の生きた明治期であり、とくに漱石が作家として活躍した明治末期ではないだろうか。それは、電気・ガス・水道、あるいは電話といった、今日の私たちの生活において、あるのが当り前になっているものが、日本の最先端を行く大都市東京において、しだいに一般家庭にまで普及していった時代。「文明開化」が大衆化した時代と言っても良いかもしれない。そのような時代を、漱石はワクワクドキドキしながら、小説の中に描き込んでいったのだろう。
漱石の小説では、電燈が『三四郎』、水道と電話が『それから』、ガス(瓦斯七輪・瓦斯暖炉)が『門』から登場する。設定時期が1908年から1909年にかけての、いわゆる「三部作」である。株や保険も大衆の中に入り込んでいったが、漱石の作品ではすでに『吾輩は猫である』から登場する。
漱石はけっして孤高の人ではない。東京という街で、夏目家という家庭で、日常生活を送った人である。私たちはその作品の中に、今から百年前の「現代」の生活を読み取ることができる。漱石というと、とかく精神活動の面に論点が集中しがちだが、生活人としての漱石という観点からみてみると、また新たな漱石がみえてくる。
電燈の普及
電力は大きくいえば照明と動力に使用される。
電燈が東京で初めて点ったのは、1878年、工部大学校のアーク燈である。1882年には銀座にアーク燈が点った。1886年に東京電燈会社が設立され、翌年から点り始めた電燈は130燈余りであった。それが、1892年には1万燈、1901年に5万燈、1904年には9.5万燈と増加していった。
一方、1890年、浅草につくられた12階建ての凌雲閣にはエレベーターが設置され、動力として電力が使われた。1903年、東京にも路面電車が走るようになり、翌年には、甲武鉄道飯田町~中野が電化された。
このような電力需要をまかなうため、浅草火力発電所(交流式)が建設され、1897年に完成した。けれども、最初に電燈が点って20年以上経過しても電力の使用は限定的で、一般家庭や工場に普及する状況ではなかった。それは、当時の電力は消費地で発電しなければならなかったからで、東京の街中で大量の電力を生み出すことに無理があった。
日露戦争などによって、東京市街にある五つの火力発電所で使用する石炭も慢性的に不足するようになり、さらに電力需要の伸びに対処しなければならない東京電燈は、水力発電による遠距離送電を計画した。こうして、1907年12月、桂川に駒橋水力発電所(山梨県大月市)が完成し、76km離れた早稲田変電所に電力が送られるようになった。日本で初めての特別高圧遠距離送電と変電(変圧)技術によって、東京に大量の電力が供給できるようになり、東京市内の家庭にも急速に電燈が普及し、1911年頃には、およそ半分の世帯に電燈が点るようになったのである。
夏目家に初めて電燈が点ったのは、1911年2月21日で、流行作家の家にしてはずいぶん遅い。これは漱石自身が電燈はぜいたくだといってなかなか引かなかったためで、その漱石が入院中に夏目家では電気を引いてしまった(松岡陽子)。
漱石の小説で、主人公の家に電燈が点っているのは、『彼岸過迄』の田川敬太郎の下宿である。漱石が電燈のもとで書いた最初の小説であるところが興味深い。三階建てのこの下宿は高等で、電話さえ敷かれている。それまでは、『琴のそら音』『趣味の遺伝』における余をはじめ、道也・代助・宗助の家や三四郎の下宿はいずれも洋燈(ランプ)を使用している。平岡の家も軒燈は電燈のようだが、室内では洋燈が使用されている。『吾輩は猫である』は夜行性の猫が主人公であるはずなのに、夜の場面がほとんどなく、照明は不明である。同じ家を設定した健三の家では洋燈を使用しているから、苦沙弥先生の家も当然、洋燈を点していたのだろう。『彼岸過迄』以後は、『こころ』の先生の家も、『明暗』の由雄の家も電燈が点いている。『行人』の長野家にも電燈が点いていたはずだが、記されていない。
1907年に開かれた東京勧業博覧会不忍池会場の呼び物は、何と言っても電燈をふんだんに使用したイルミネーションであった。漱石はさっそくそれを連載中の『虞美人草』に描き込んだ。甲野欽吾・藤尾、宗近一・糸子の四人が博覧会を見に来ている。
蟻は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存のうちに無聊をかこつ。(略)蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を牽く。(略)閃く影に躍る善男子、善女子は家を空しゅうしてイルミネーションに集まる。文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。苟しくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんが為にイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気が付く。花電車が風を截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。(略)星ならずして夜を護る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点いた。「あら」と糸子が云う。「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。(略)「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点す。「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」「夜見ると」と甲野さんがすぐ但書を附け加えた。「ねえ、糸公、まるで竜宮の様だろう」「本当に竜宮ね」(略)かくして塔は棟に入り、棟は床に連なって、不忍池の池の、此方から見渡す向を、右から左へ隙間なく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。(略)「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。「あれが外国館。丁度正面に見える。此所から見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君は一寸躊躇した。「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。「冠に紅玉を嵌めた様だ事」と藤尾が云う。「成程、天賞堂の広告みた様だ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。(略)「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼は悉く水と橋とに聚った。一間毎に高く石欄干を照らす電光が、遠き此方からは、行儀よく一列に空に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。「あの橋は人で埋っている」と宗近君が大きな声を出した。
その橋の上には、恐れをなしている井上父娘と、平然とした小野がいる。
この箇所が新聞紙上に掲載された時、すでに博覧会は終っていたが、読者にはあらためてその感動がよみがえったことであろう。電燈によるイルミネーションが人気をよんだ初めての博覧会は、1900年に開かれたパリ万国博覧会である。パリでは5回目の万国博覧会であった。多数の白熱燈が輝く電気館は人々を魅了したと言われ、留学でロンドンにむかう途中の漱石も見学に立ち寄った。それに遅れること7年、とは言うものの、意外に早く日本でみることができたイルミネーションに、漱石も興奮をおぼえたのではないだろうか。1909年、両国国技館には電気仕掛けが登場し、1910年にはルナパークが浅草に開園した。
東京勧業博覧会は駒橋水力発電所から電力が供給される半年程前におこなわれたので、電力事情からすれば厳しいものがあっただろうが、電燈普及には大きな役割を果たしたと言える。三四郎が上京したのは、長距離送電が始まった翌年の1908年夏休みの終わり頃である。帝国大学には講義室にも学生集会所にも、すでに電燈が点いている。三四郎の下宿から近い野々宮さんの下宿には、藁葺の家であるにもかかわらず電燈が点いている。周りの家々も戸毎に軒燈を点している。急速に電燈が普及しているにも関わらず三四郎の下宿は洋燈である。暮れも近い頃、与次郎が言う。《「この家ではまだ電気を引かないのか」と顔付には全く縁のない事を聞いた。「まだ引かない。その内電気にする積りだそうだ。洋燈は暗くて不可んね」》三四郎はそう答えている。この言からすると、与次郎が寄宿する広田先生の家にも電燈が点いていたのだろう。とにかくこの頃のようすをよく表わしている。おそらく、夏目家でも電気を引くか引かないか話題になっていたことだろう。
電燈の普及は、1909年に書かれた『それから』に、つぎのように評されている。
「もう、そろそろ蛍が出る時分ですな」と云った。代助は可笑な顔をして、「まだ出やしまい」と答えた。すると門野は例の如く、「そうでしょうか」と云う返事をしたが、すぐ真面目な調子で、「蛍てえものは、昔は大分流行たもんだが、近来は余り文士方が騒がない様になりましたな。どう云うもんでしょう。蛍だの烏だのって、この頃じゃついぞ見た事がない位なもんだ」と云った。「そうさ。どう云う訳だろう」と代助も空っとぼけて、真面目な挨拶をした。すると門野は、「やっぱり、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでしょう」
100年前の東京ではすでにそんなことが起きていたのかと、蚊帳に停まる蛍を見て育った私はただびっくりするばかりである。それとともに、こんな一文を作品に挿入した漱石の文明に対する鋭さにも驚かされる。
『琴のそら音』から『門』までと、『道草』には、短い記述ながら、ところどころに洋燈が出てくる。『琴のそら音』や『虞美人草』では洋燈が心理描写に使われ、『門』の宗助夫妻は洋燈の照らす範囲だけが自分たちの社会である。『坑夫』の私は、洋燈の燈は人間らしいものだとつくづく感心している。
漱石の小説に登場する洋燈はいずれも卓上型で、三四郎は机上に置いてあり、宗助の家では、洋燈の心を細めて床の間に置き、一晩中点けている。代助は蚊帳の外に洋燈が置いてあり、点けるのは門野だが、寝る前には代助自身が消している。三四郎が上京する汽車の車内燈は洋燈である。『門』では往診に来た医者のために洋燈が使われ、『道草』では健三が妻の出産にあたって、男子の見るべからざるものを洋燈で照らす。その妻は裁縫となると、一時でも二時でも、細い針の目を洋燈の下に運ばせている。机の前へ坐った道也先生は、燐寸を擦って、しゅっと云う間に火をランプに移し、小六は嫂に「姉さん、ランプの心を剪る鋏はどこにあるんですか」と訊いている。
健三の家には洋燈が同じ型のものばかり三台ある。訪ねてきた養父島田は、洋燈を手元に引き寄せて、しきりに具合を見ている。漱石は島田の性質を描き上げる。
その洋燈は細長い竹の台の上に油壺を嵌め込むように拵えたもので、鼓の胴の恰形に似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心を出したり引っ込ましたりしながら灯火の具合を眺めていた。彼は改まった挨拶もせずに、「少し油煙がたまる様ですね」と云った。
この文に先立って漱石は、《電気燈のまだ戸毎に点されない頃だったので、客間には例もの通り洋燈が点いていた。》の一文を入れている。1903年の設定にもかかわらず、あえてこのようなことをおこなったのは、1915年の読者がすでに洋燈時代を忘れているかもしれないという、そんな心配からかもしれないし、急速な変化の中に一昔前を懐かしむ漱石自身が思わず出てしまったからかもしれない。東京はすでに電燈の時代にはいっていた。
瓦斯の普及
瓦斯は瓦斯燈を点すために用いられ、調理と暖房の熱源として用いられるようになったのは、1897年頃からである。1907年に開かれた東京勧業博覧会はイルミネーションの競演となり、『虞美人草』に詳しく描かれているが、東京瓦斯会社(1885年設立)の瓦斯館は全館が花瓦斯で装飾され、赤みを帯びた電燈の中で、青白い光のガス燈は異彩を放っていた。
漱石の作品では、『坊ちゃん』『二百十日』に瓦斯燈、『野分』には西洋軒(上野精養軒)に輝く花瓦斯が出てくる。調理用や暖房用の瓦斯器具が初めて登場するのは、1909年が設定時期の『門』である。宗助の家ではまだ七輪や火鉢が使われているが、宗助が乗った電車には「瓦斯竈を使え」の車内広告があり、坂井の家には瓦斯七輪や瓦斯暖炉がある。漱石の家では、この1909年7月20日、瓦斯を引いている。しかも瓦斯七輪は三口であった(『漱石日記』)。1911年が設定時期の『彼岸過迄』では、坂井と同じ矢来に住む松本の家に瓦斯七輪のあることが記されている。これは二口七輪(1904年から発売開始)である。
瓦斯も電燈と同じように、1911年頃には、東京市内のおよそ半分の世帯に普及するようになった。しかしその用途はおもに調理用であって、暖房用ではなかった。1914年が設定時期の『明暗』に至るまで、暖房の主役は火鉢である。そのため、『明暗』でも瓦斯暖炉があるのは吉川の家や、品の良いフランス料理屋といったところに限られている。
水道の普及
東京における近代的な水道は、1898年の淀橋浄水場(現在、都庁などがある西新宿)完成に始まる。水は淀橋浄水場から本郷給水工場(現在、水道給水所公苑・水道歴史館などがある)へ送られ、各所へ給水された。1901年には、江戸時代から活躍した玉川上水・神田上水が給水を停止した。水道敷設の当初計画は1911年に完成した。
漱石が我が家に水道を引こうと考えたきっかけは、三女栄子の赤痢である。1906年、千駄木の家の持ち主である斎藤阿具に宛てて、18円で水道を引いて、それを寄付する代りに、塀を直して欲しいと依頼している。そのような漱石であったから、西片町の家にも、早稲田南町の家にも転居時に水道があったと考えられる。とくに早稲田南町の家はもともと医院としてつくられたものであるから、水道のあるのがむしろ当然であろう。1907年10月、転居後、鈴木三重吉に勧められて文鳥を飼い、木枯らし吹く季節に大変冷たい水道の水を与えている(『文鳥』)。
小説として初めて水道の出てくる作品は、1909年に書かれた『それから』である。代助は三千代に水を飲ませるため、自ら水道の栓をひねっている。
『門』は水道普及のようすがよく表わされている。宗助が福岡から東京へ戻ったのは小六が高校生になろうという1907年春であった。その頃、宗助の家に水道はなく、井戸を利用していた。1909年から1910年にむかう冬には、御米が「今年も去年の様に水道の栓が氷ってくれなければ助かるが」と話しているので、1908年には水道がはいっていたと考えられる。水道税の事で聞き合せる必要の生じた宗助は、坂井の家に寄っている。叔母たちは1909年に麹町区中六番町25番地へ引越した。それ以前、どこに住んでいたか明記されていないが、小六が佐伯の家で、障子の張替えに水道の水を使って失敗したことを話しているから、宗助の家より早く水道が使われていたと思われる。
生活の程度を描き出す
私の子ども時代は高度経済成長期であった。変化多き楽しい時代であった。電話のある家もあれば、ない家もある。テレビのある家もあれば、ない家もある。電話もテレビもある家は、裕福な家であった。漱石も電気・ガス・水道・電話などを使って、各家の生活程度を描き出した。
『彼岸過迄』では、敬太郎の下宿にも電話があるので、その面での違いは出てこないが、田口の家には自動車が停まり、須永の家はアイスクリームを取っており、松本の家には瓦斯七輪がある。こうした「小道具」を使いながら、漱石は敬太郎と他の三つの家の生活程度の違いを表わしている。『明暗』では、由雄の家にも電燈が点いているので、電話で違いを出している。由雄の家に電話はないが、岡本・堀の家には電話がある。藤井の家に電話があるかどうかわからないが、吉川の家には確かに電話があっただろう。吉川家には瓦斯暖炉もある。対照的に描かれる典型例は、『門』の宗助の家と坂井の家である。崖下の宗助は、崖上の坂井の借家に住んでいる。宗助の家は、洋燈を点し、七輪や火鉢を使用している。電話はない。坂井の家には、電燈が点り、瓦斯七輪や瓦斯暖炉を使用し、電話もある。ピアノやブランコもある。
『それから』の長井家は青山に邸宅を構え、自家用人力車をもっている。ピアノやヴァイオリン、ブランコなどがあり、アイスクリームも食べている。当然、代助もその一員であるのだが、実家から離れて一家を構えているとは言っても、大学を出ても職に就かず、実家の仕送りで生活している代助に、漱石は二つの違いを与えた。代助の家には電話がなく、まだ洋燈を使用している。『行人』の長野家も、長井家ほどではないかもしれないが、裕福な家である。庭にはブランコがあり、プリンを食べ、冷蔵庫(氷使用)を使っている。こちらも次男が家を離れるが、代助と違って二郎は職にも就き、家族仲も悪くないので、下宿には電話がある設定になっている。漱石の家にも電話、ブランコやピアノがあり、アイスクリームをつくって食べたりしている。
内風呂と銭湯
漱石の小説で、主人公の家に風呂があるのは、苦沙弥先生の家、代助の家、長野家(二郎の実家)である。また、『こころ』の私の実家や、『琴のそら音』の宇野家にも風呂がある。苦沙弥先生の家は風呂場があるものの、銭湯へ行っている。三四郎や敬太郎の下宿、宗助の家はもちろん、由雄の家も風呂がなく、銭湯へ行く場面が描かれている。
漱石の家はどうだろうか。千駄木の家に風呂場があったことは、「猫の家」の間取り図からも明らかである。ただし、風呂桶がなく、結局苦沙弥先生同様、銭湯へ通っていた。西片町の家も風呂がなく、漱石もよく銭湯へ行ったようで、二葉亭四迷ともいっしょになったという。漱石は銭湯が好きだったという。
西片町の家は家賃をどんどん引き上げられたことと並んで、風呂のないことが転居理由の一つになったようで、漱石は風呂場のついた家を探したのだろう。早稲田の家に風呂場があることは、1909年に連載された『永日小品』にも記されている。転居後1年経った冬のことである。
窓の下には昨日の雪がそのままである。風呂場は氷でかちかち光っている。水道は凍り着いて、栓が利かない。
松岡陽子マックレインは初めての内風呂で、張り切って風呂桶に飛び込んだ漱石が、下がまだ冷たいままで、「ひゃっ」と悲鳴をあげて、素っ裸で部屋へ戻って来た話しを記している。家族は大笑いし、漱石もいっしょにお腹を抱えて笑ったという。その場に居合わせたかったものである。