電燈が東京で初めて点ったのは、1878年、工部大学校のアーク燈である。1882年には銀座にアーク燈が点った。1886年に東京電燈会社が設立され、翌年から点り始めた電燈は130燈余りであった。それが、1892年には1万燈、1901年に5万燈、1904年には9.5万燈と増加していった。
一方、1890年、浅草につくられた12階建ての凌雲閣にはエレベーターが設置され、動力として電力が使われた。1903年、東京にも路面電車が走るようになり、翌年には、甲武鉄道飯田町~中野が電化された。
このような電力需要をまかなうため、浅草火力発電所(交流式)が建設され、1897年に完成した。けれども、最初に電燈が点って20年以上経過しても電力の使用は限定的で、一般家庭や工場に普及する状況ではなかった。それは、当時の電力は消費地で発電しなければならなかったからで、東京の街中で大量の電力を生み出すことに無理があった。
日露戦争などによって、東京市街にある五つの火力発電所で使用する石炭も慢性的に不足するようになり、さらに電力需要の伸びに対処しなければならない東京電燈は、水力発電による遠距離送電を計画した。こうして、1907年12月、桂川に駒橋水力発電所(山梨県大月市)が完成し、76km離れた早稲田変電所に電力が送られるようになった。日本で初めての特別高圧遠距離送電と変電(変圧)技術によって、東京に大量の電力が供給できるようになり、東京市内の家庭にも急速に電燈が普及し、1911年頃には、およそ半分の世帯に電燈が点るようになったのである。
夏目家に初めて電燈が点ったのは、1911年2月21日で、流行作家の家にしてはずいぶん遅い。これは漱石自身が電燈はぜいたくだといってなかなか引かなかったためで、その漱石が入院中に夏目家では電気を引いてしまった(松岡陽子)。
漱石の小説で、主人公の家に電燈が点っているのは、『彼岸過迄』の田川敬太郎の下宿である。漱石が電燈のもとで書いた最初の小説であるところが興味深い。三階建てのこの下宿は高等で、電話さえ敷かれている。それまでは、『琴のそら音』『趣味の遺伝』における余をはじめ、道也・代助・宗助の家や三四郎の下宿はいずれも洋燈(ランプ)を使用している。平岡の家も軒燈は電燈のようだが、室内では洋燈が使用されている。『吾輩は猫である』は夜行性の猫が主人公であるはずなのに、夜の場面がほとんどなく、照明は不明である。同じ家を設定した健三の家では洋燈を使用しているから、苦沙弥先生の家も当然、洋燈を点していたのだろう。『彼岸過迄』以後は、『こころ』の先生の家も、『明暗』の由雄の家も電燈が点いている。『行人』の長野家にも電燈が点いていたはずだが、記されていない。
1907年に開かれた東京勧業博覧会不忍池会場の呼び物は、何と言っても電燈をふんだんに使用したイルミネーションであった。漱石はさっそくそれを連載中の『虞美人草』に描き込んだ。甲野欽吾・藤尾、宗近一・糸子の四人が博覧会を見に来ている。
その橋の上には、恐れをなしている井上父娘と、平然とした小野がいる。
この箇所が新聞紙上に掲載された時、すでに博覧会は終っていたが、読者にはあらためてその感動がよみがえったことであろう。電燈によるイルミネーションが人気をよんだ初めての博覧会は、1900年に開かれたパリ万国博覧会である。パリでは5回目の万国博覧会であった。多数の白熱燈が輝く電気館は人々を魅了したと言われ、留学でロンドンにむかう途中の漱石も見学に立ち寄った。それに遅れること7年、とは言うものの、意外に早く日本でみることができたイルミネーションに、漱石も興奮をおぼえたのではないだろうか。1909年、両国国技館には電気仕掛けが登場し、1910年にはルナパークが浅草に開園した。
東京勧業博覧会は駒橋水力発電所から電力が供給される半年程前におこなわれたので、電力事情からすれば厳しいものがあっただろうが、電燈普及には大きな役割を果たしたと言える。三四郎が上京したのは、長距離送電が始まった翌年の1908年夏休みの終わり頃である。帝国大学には講義室にも学生集会所にも、すでに電燈が点いている。三四郎の下宿から近い野々宮さんの下宿には、藁葺の家であるにもかかわらず電燈が点いている。周りの家々も戸毎に軒燈を点している。急速に電燈が普及しているにも関わらず三四郎の下宿は洋燈である。暮れも近い頃、与次郎が言う。《「この家ではまだ電気を引かないのか」と顔付には全く縁のない事を聞いた。「まだ引かない。その内電気にする積りだそうだ。洋燈は暗くて不可んね」》三四郎はそう答えている。この言からすると、与次郎が寄宿する広田先生の家にも電燈が点いていたのだろう。とにかくこの頃のようすをよく表わしている。おそらく、夏目家でも電気を引くか引かないか話題になっていたことだろう。
電燈の普及は、1909年に書かれた『それから』に、つぎのように評されている。
100年前の東京ではすでにそんなことが起きていたのかと、蚊帳に停まる蛍を見て育った私はただびっくりするばかりである。それとともに、こんな一文を作品に挿入した漱石の文明に対する鋭さにも驚かされる。
『琴のそら音』から『門』までと、『道草』には、短い記述ながら、ところどころに洋燈が出てくる。『琴のそら音』や『虞美人草』では洋燈が心理描写に使われ、『門』の宗助夫妻は洋燈の照らす範囲だけが自分たちの社会である。『坑夫』の私は、洋燈の燈は人間らしいものだとつくづく感心している。
漱石の小説に登場する洋燈はいずれも卓上型で、三四郎は机上に置いてあり、宗助の家では、洋燈の心を細めて床の間に置き、一晩中点けている。代助は蚊帳の外に洋燈が置いてあり、点けるのは門野だが、寝る前には代助自身が消している。三四郎が上京する汽車の車内燈は洋燈である。『門』では往診に来た医者のために洋燈が使われ、『道草』では健三が妻の出産にあたって、男子の見るべからざるものを洋燈で照らす。その妻は裁縫となると、一時でも二時でも、細い針の目を洋燈の下に運ばせている。机の前へ坐った道也先生は、燐寸を擦って、しゅっと云う間に火をランプに移し、小六は嫂に「姉さん、ランプの心を剪る鋏はどこにあるんですか」と訊いている。
健三の家には洋燈が同じ型のものばかり三台ある。訪ねてきた養父島田は、洋燈を手元に引き寄せて、しきりに具合を見ている。漱石は島田の性質を描き上げる。