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27.漱石が描いた「現代」生活②
都市内交通の変化
江戸の市内交通は圧倒的に徒歩が多く、駕篭、馬、荷車、馬車なども使用された。大川(隅田川)、神田川や、堀割では、船を使って、人や物の輸送がおこなわれた。明治になっても、東京市内の交通は基本的に江戸時代と変化なかった。武士階層がなくなったこともあって、駕篭がその姿を消していき、かわって、1870年に登場した人力車が急速に普及していった。
1882年には、日本で初めて鉄道馬車が走り始めた。まず、新橋停車場~日本橋が開業し、続いて、日本橋~本町・石町~上野山下~浅草~浅草橋~本町・石町(循環運転)が開業した。これは現在の、中央通り~浅草通り~江戸通りのルートにあたる。鉄道馬車は1897年には新橋停車場から品川まで延伸されたが、それ以上に路線の広がりはなかった。市内に鉄道網が広がるようになったのは、1903年、路面電車が走り始めてからである。日本に初めて路面電車が走ったのは1895年、京都であった。東京はそれより8年も後れを取っていた。
漱石の作品に登場する人物たちも、ひたすら歩いている。例えば、『彼岸過迄』の敬太郎は、本郷から上野、浅草、蔵前へ易者を探して歩いており、往復10km以上になる。そのような日常生活の中にあって、登場人物たちも、時に人力車を利用し、時に路面電車を利用している。両者の使い分けとしては、今日のタクシーと電車・バスの関係に似ている。ただ、路面電車の路線網はじゅうぶんに発達していなかったので、人力車の果たす役割は大きかった(もちろん、人間が走るのであるから、その速度はタクシーとくらべものにならない)。
『吾輩は猫である』で苦沙弥先生は盗品の返還を受けるため、吉原の日本堤分署まで往復人力車を使っている。『琴のそら音』では婚約者の宇野露子が人力車で余の家を訪れている。『趣味の遺伝』では浩一の恋人と思われる女性が、白山方面へ疾走する人力車の上に見かけられる。『坊ちゃん』では、四国へ旅立つ坊ちゃんが下女の清と共に、人力車を並べて新橋駅へむかう。『野分』では白井道也が取材のため中野輝一の家を訪れる時、人力車を利用している。
『虞美人草』では、人力車の動きは切迫感をもり立てている。
あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一輌の車はクレオパトラの怒を乗せて韋駄天の如く新橋から馳けて来る。
三四郎は新しい四角な帽子を被って、一寸得意気に野々宮の妹が入院している病院(現、東京大学病院)へむかう。
御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗った。いつもの三四郎に似合わぬ所作である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。
『行人』では、下女お貞さんの婚礼に、番町の長野家から日比谷の大神宮まで人力車が使われている。
愈出る時に、父は一番綺麗な俥を択って、お貞さんを乗せて遣った。
電車を乗り回すのと同じように人力車を乗り回したのは『それから』の代助である。
「善かろう」と云って、又家を出た。そうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場まで来て、奇麗で早そうな奴を択んで飛び乗った。何処へ行く当もないのを好加減な町を名指して二時間程ぐるぐる乗り廻して帰った。
実際、人力車が登場した翌年の1871年、毎日人力車を雇って一日中市内を乗り廻す人物がいたようで、車夫はいつもヘトヘトになるまで乗り廻されて、身がもたないので、その人物を見かけると逃げ出したとのことである。
そのような代助も別の場面では、三千代を独り返す気になれず、わざと人力車を雇わずに自分で送って出た。江戸川の橋の上で三千代と別れた代助は腹の中で「万事終る」と宣告している。『明暗』では、叔父の家から帰るお延は、叔父が人力車で送らせると言うのを断ったが、停留所まで自分で送るという好意まで断ることはできなかった。
人力車の増加にともなって、激しい競争で運賃も相対的に低下し、東京に路面電車が登場した1903年頃、矢来から神田まで3銭から5銭で乗れたという。就職二年目の多々良三平(苦沙弥先生の教え子)の月給は30円であった。
『三四郎』(1908年)で、三四郎は路面電車を乗り回している。この辺りから路面電車の記述が多くなり、まさに人力車と新参者の路面電車が並走する。そして、登場人物たちは用途に応じて、二つを使い分けている。
『虞美人草』では、浅井が井上先生の家から宗近家にむかう時、電車が利用され、その後、登場人物たちは役割に応じ、人力車を使って移動している。『それから』では、実家へむかう代助が電車の中から人力車に乗った父と兄を見かける。この人力車は綱曳(通常の人力車に綱をつけて二人で曳くもの。速度が出る)であった。また、実家から嫂・妹といっしょに人力車で歌舞伎座へむかった代助は、帰りには一人だけ電車で帰宅している。
電車を下りてから自宅まで人力車を利用している例もある。『彼岸過迄』では、江戸川橋終点で電車を下りた松本は、雨が降っていたこともあるが、《男は雨の中へ出ると、直寄って来る俥引を捕まえた》。松本を尾行した敬太郎も、
後れない様に一台雇った。車夫は梶棒を上げながら、何処へと聞いた。敬太郎はあの車の後に付いて行けと命じた。車夫はへいと云って無暗に馳け出した。一本道を矢来の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒を留めて、旦那何方へ行くんですと聞いた。男の乗った車は幾何幌の内から延び上っても影さえ見えなかった。
鉄輪の人力車は振動もひどく、「人力車は胃腸に悪い」と言われるくらい乗心地は悪かった。『こころ』では先生の遺書の中に、学生時代を振り返ってつぎのような一文がある。
今のように護謨輪のない時分でしたから、がらがらいう厭な響が可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
車輪にゴムタイヤを使った人力車(護謨輪)が登場したのは、自家用では1903年、営業用としては1907年頃からである。漱石の作品で最初に登場するのが『それから』である。代助の実家から迎えに来た自家用人力車は護謨輪であった。その乗心地は、《音も響もない車輪が美くしく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で宙に運んで行く有様が愉快であった。》と表現されている。つづいて『門』では、宗助の家の辺りを、ベルを鳴らしながら通って行く。二作品とも設定時期は1909年である。『明暗』頃になると、護謨輪もかなり普及してきたのであろう。手術後の夫を病院に残して劇場へむかうお延が乗った人力車は、《角の帳場にある四五台のうちで一番新しいものであった。小路を出た護謨輪は電車通りばかり走った》。帰りも、電車を下りてそれほど歩く必要のないお延は、それでも人力車を利用している。
「オー、ライ」四人の車はこの英語を相図に走け出した。津田の宅と略同じ方角に当る岡本の住居は、少し道程が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪は、小路へ曲る例の角まで一所に来る事が出来た。
日本で自動車が走ったのは1898年が最初と言われているが、すぐには普及しなかった。自動車が漱石の作品に初めて登場するのは『彼岸過迄』で、田口の家の前に自動車が停まっている。1907年、日本で最初のハイヤー(運転手付きの貸自動車)会社である帝国運輸自動車が東京にできている。田口の家は、ハイヤーで乗り付ける客が出入りする家である。それでも、当時の上流階級や金持ちにとっては、自動車より馬車の方が高級イメージをもっていたようだ。『行人』ではつぎのように書かれている。
雅楽所の門内には俥が沢山並んでいた。馬車も一二台いた。然し自動車は一つも見えなかった。
漱石は見過ごしそうなところまで、じつに細かく正確に描写している。
1912年、日本で初めてのタクシー(辻待ちタクシー)会社であるタクシー自動車が有楽町にでき、T型フォード6台が営業を開始した。『明暗』では、由雄は吉川夫人が自動車で病院まで来たのではないかと思う。実際に何で来たか書かれていないが、吉川の家ならタクシーを使っても不思議のない家なのだろう。
この頃になると、銀座などには自動車も少しはみかけられるようになったらしく、小林と青年の姿が自動車のヘッドライトに映し出される場面も描かれている。しかし、この頃から第一次大戦の影響でガソリンが不足するようになり、タクシーのガソリン使用が禁止され(1914年)、木炭・薪に置き換えられていった。由雄は甥の真事からおもちゃの自動車をねだられる。7円50銭もするそのおもちゃを、さすがに由雄は買えなかった。
タクシーは速さにおいて、けっして電車に劣るものではないが、さすがに人力車は電車と競走にはならない。『明暗』で、妻お延と吉川夫人を会わせたくない津田由雄は、「病院へ来てはいけない」と急いで妻に知らせる必要があった。今なら携帯電話をかければ用は足りるが、まだ電話そのものが各家庭に普及していない時代である。手紙を出すしか方法がない。しかしながら郵便では時間がかかってしまう。このような時、手紙を車夫に託して相手方に届ける方法があった。これなら早い。ところがきわめて急いでいた由雄は、車夫に電車に乗って行くように命じている。
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫は又看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。其所を少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなく又名宛の苗字を小綺麗な二階建の一軒の門札に見出した。
漱石の小説を読んで不思議に思うことがある。自転車が出てこない。すでに帝国大学には1886年に自転車会ができており、1892年から逓信省は電報の配達に自転車を使用している。1893年には宮田製作所が国産自転車第一号を製造し、平塚らいてうも通った日本女子大では、1907年から校庭で自転車の練習をおこなっている。1911年からは速達郵便の配達にも自転車が用いられるようになる。これだけ身近に自転車がありながら、やっと見つけ出したのが『虞美人草』の1ヵ所だけである。《小野さんは隋道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳け出そうとする》。自転車に対するこのような扱いは、『自転車日記』にあるように、1902年秋、イギリスで無理やりやらされた自転車の練習が、後々まで漱石を自転車から遠ざける要因になったのかもしれない。