江戸の市内交通は圧倒的に徒歩が多く、駕篭、馬、荷車、馬車なども使用された。大川(隅田川)、神田川や、堀割では、船を使って、人や物の輸送がおこなわれた。明治になっても、東京市内の交通は基本的に江戸時代と変化なかった。武士階層がなくなったこともあって、駕篭がその姿を消していき、かわって、1870年に登場した人力車が急速に普及していった。
1882年には、日本で初めて鉄道馬車が走り始めた。まず、新橋停車場~日本橋が開業し、続いて、日本橋~本町・石町~上野山下~浅草~浅草橋~本町・石町(循環運転)が開業した。これは現在の、中央通り~浅草通り~江戸通りのルートにあたる。鉄道馬車は1897年には新橋停車場から品川まで延伸されたが、それ以上に路線の広がりはなかった。市内に鉄道網が広がるようになったのは、1903年、路面電車が走り始めてからである。日本に初めて路面電車が走ったのは1895年、京都であった。東京はそれより8年も後れを取っていた。
漱石の作品に登場する人物たちも、ひたすら歩いている。例えば、『彼岸過迄』の敬太郎は、本郷から上野、浅草、蔵前へ易者を探して歩いており、往復10km以上になる。そのような日常生活の中にあって、登場人物たちも、時に人力車を利用し、時に路面電車を利用している。両者の使い分けとしては、今日のタクシーと電車・バスの関係に似ている。ただ、路面電車の路線網はじゅうぶんに発達していなかったので、人力車の果たす役割は大きかった(もちろん、人間が走るのであるから、その速度はタクシーとくらべものにならない)。
『吾輩は猫である』で苦沙弥先生は盗品の返還を受けるため、吉原の日本堤分署まで往復人力車を使っている。『琴のそら音』では婚約者の宇野露子が人力車で余の家を訪れている。『趣味の遺伝』では浩一の恋人と思われる女性が、白山方面へ疾走する人力車の上に見かけられる。『坊ちゃん』では、四国へ旅立つ坊ちゃんが下女の清と共に、人力車を並べて新橋駅へむかう。『野分』では白井道也が取材のため中野輝一の家を訪れる時、人力車を利用している。
『虞美人草』では、人力車の動きは切迫感をもり立てている。
実際、人力車が登場した翌年の1871年、毎日人力車を雇って一日中市内を乗り廻す人物がいたようで、車夫はいつもヘトヘトになるまで乗り廻されて、身がもたないので、その人物を見かけると逃げ出したとのことである。
そのような代助も別の場面では、三千代を独り返す気になれず、わざと人力車を雇わずに自分で送って出た。江戸川の橋の上で三千代と別れた代助は腹の中で「万事終る」と宣告している。『明暗』では、叔父の家から帰るお延は、叔父が人力車で送らせると言うのを断ったが、停留所まで自分で送るという好意まで断ることはできなかった。
人力車の増加にともなって、激しい競争で運賃も相対的に低下し、東京に路面電車が登場した1903年頃、矢来から神田まで3銭から5銭で乗れたという。就職二年目の多々良三平(苦沙弥先生の教え子)の月給は30円であった。
『三四郎』(1908年)で、三四郎は路面電車を乗り回している。この辺りから路面電車の記述が多くなり、まさに人力車と新参者の路面電車が並走する。そして、登場人物たちは用途に応じて、二つを使い分けている。
『虞美人草』では、浅井が井上先生の家から宗近家にむかう時、電車が利用され、その後、登場人物たちは役割に応じ、人力車を使って移動している。『それから』では、実家へむかう代助が電車の中から人力車に乗った父と兄を見かける。この人力車は綱曳(通常の人力車に綱をつけて二人で曳くもの。速度が出る)であった。また、実家から嫂・妹といっしょに人力車で歌舞伎座へむかった代助は、帰りには一人だけ電車で帰宅している。
電車を下りてから自宅まで人力車を利用している例もある。『彼岸過迄』では、江戸川橋終点で電車を下りた松本は、雨が降っていたこともあるが、《男は雨の中へ出ると、直寄って来る俥引を捕まえた》。松本を尾行した敬太郎も、
漱石は見過ごしそうなところまで、じつに細かく正確に描写している。
1912年、日本で初めてのタクシー(辻待ちタクシー)会社であるタクシー自動車が有楽町にでき、T型フォード6台が営業を開始した。『明暗』では、由雄は吉川夫人が自動車で病院まで来たのではないかと思う。実際に何で来たか書かれていないが、吉川の家ならタクシーを使っても不思議のない家なのだろう。
この頃になると、銀座などには自動車も少しはみかけられるようになったらしく、小林と青年の姿が自動車のヘッドライトに映し出される場面も描かれている。しかし、この頃から第一次大戦の影響でガソリンが不足するようになり、タクシーのガソリン使用が禁止され(1914年)、木炭・薪に置き換えられていった。由雄は甥の真事からおもちゃの自動車をねだられる。7円50銭もするそのおもちゃを、さすがに由雄は買えなかった。
タクシーは速さにおいて、けっして電車に劣るものではないが、さすがに人力車は電車と競走にはならない。『明暗』で、妻お延と吉川夫人を会わせたくない津田由雄は、「病院へ来てはいけない」と急いで妻に知らせる必要があった。今なら携帯電話をかければ用は足りるが、まだ電話そのものが各家庭に普及していない時代である。手紙を出すしか方法がない。しかしながら郵便では時間がかかってしまう。このような時、手紙を車夫に託して相手方に届ける方法があった。これなら早い。ところがきわめて急いでいた由雄は、車夫に電車に乗って行くように命じている。