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28.漱石が描いた「現代」生活③
市内の連絡はどのようにしたか――電話の普及その前後
「明日、家に行っても良いか」とか、「どこどこで会おう」という連絡は、今なら電話を使えばよい。江戸時代には、自分で行くか、使いの者をやるしかなかっただろう。それでは、「漱石時代」はどうだったのだろうか。『行人』の冒頭にはつぎのような一文がある。長野二郎は親友三沢と大阪で落ち合うことにして、連絡先に岡田の家を伝えた。二郎は、
岡田が電話を有っているかどうか、其処は自分にも甚だ危しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好いから、すぐ出して呉れるように頼んで置いた。
やっと電話が普及し始めた頃の状況を、みごとに要約している。こんな細かな配慮も、生活者としての漱石ならでは魅力である。大阪の岡田の家には電話がなく、三沢からは結局手紙が届いている。
日本で初めての電信が開通したのは1869年、東京・横浜間であった。日本で初めての電話が開通したのは、それから21年後、1890年の東京・横浜間である。1899年、全国の電話台数は1万台、1910年には10万台、1922年には全国で40万台、東京で8万台に達していた。漱石死後においても、電話はまだあまり普及していない。同じ東京市内においても、お互いの連絡方法は直接行くのでなければ、郵便か、緊急の場合には電信(電報)である。『虞美人草』の宗近家、『それから』の代助の家には夜中郵便(夜中投函)が設けられている。これは門が閉まっている時に使用する郵便受である。
電話が普及する前の連絡方法をよく描いているのが『三四郎』である。大久保にある野々宮さんの家に行った三四郎。野々宮さんのところへ入院中の妹から電報が届き、急いで出かける。野々宮さんは帰って来ないし、重病ではないかと三四郎は心配している。夜11時を過ぎて、「妹無事、明日朝帰る」の電報が届く。こうした緊急連絡に対して、明日に関する連絡は郵便を利用している。三四郎のもとに美禰子から葉書が届いた。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうちまでいらっしゃい。」という内容である。菊人形を見に行くのは日曜日。美禰子はおそらく土曜日に着くことを想定して「明日」と書いたのだろう。当時の郵便はすでに何時配達されるか予測できるくらいに正確に配達されていたと思われる。それでも美禰子は心配だったのだろう。三四郎に会うなりすぐ、「端書は何時頃着きましたか」と聞いている。
美禰子は受取る相手のことを考えた文面を書いている。代助は平岡から届いた葉書から相手の状況を推察している。
端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎という差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。「もう来たのか、昨日着いたんだな」
宗助も麹町にいる佐伯の叔母に手紙を出している。切手は煙草店でいっしょに売っていることがわかる。もちろん、用事がある時、郵便や電報を使うより、何の連絡もなしに直接訪ねることの方がはるかに多かっただろう。『こころ』では、最初の頃、私が訪ねた時、二回とも先生は不在だった。『明暗』では、由雄の入院にともない岡本の誘いの芝居見物を断らなければならないお延は、《岡本へは二三日中に端書を出すか、でなければ私が一寸行って断わって来ますから》、と述べている。
漱石の作品において、電話が利用されているようすは『それから』から登場する。しかしながら、設定時期としてもっとも早い電話の登場は『道草』である。1903年、三女出産にあたって妻は予期より早く産気づいた。健三はあわてて産婆を呼ぼうとする。
職業柄産婆の宅には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろう筈はなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳け付けるのを例にしていた。
漱石自身の実体験は四女出産の折である。おそらく下女が近所の尼子医師の家へ走って、電話を掛けたのだろう。1905年のことである。『門』でも宗助の家には電話がなかったので、御米が病気になった時、坂井の家の電話を借りて医者を呼んでいる。発案したのも、電話を掛けに行ったのも小六であった。
電話というのは両者になければ、何の役にも立たないことを今更ながら思い知らされる。代助の実家には電話があるが、代助の家に電話はない。したがって、実家から代助への連絡は郵便である。平岡の上京を知らせる葉書と同便で、父から手紙が届いている。「明日何時までに御出」という葉書が来たこともある。一度は実家の自家用人力車が直接迎えに来たこともあった。代助の方から実家へ連絡をとることはあまりなかったようだが、どうしても電話を掛ける必要があって、代助は神楽坂下の自働電話まで掛けに行っている。外濠に架かる牛込橋の左手(下流側)に牛込警察署、右手(上流側)に自働電話があった。
午少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯を済ますや否や、護謨の合羽を引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。
『明暗』では、病院や堀の家、岡本の家には電話があり、津田の家にはないので、近くの電車通りにある自働電話を利用している。電車通りから新川橋へ通じる道へ入るところ、現在でいうと、目白通りから専大通りが分かれるところに、自働電話はあった。新しい自働電話と記されている。
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。然し今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。「一寸訊いてくる」「今すぐ?」お延は吃驚して夫の顔を見た。「なに電話でだよ。訳やない」彼は静かな茶の間の空気を蹴散らす人のように立ち上がると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁程右へ行った所にある自動電話へ馳け付けた。
同じ自働電話からお延は、病院、岡本、由雄の妹秀に電話を掛けている。一方、入院中の由雄は自宅に電話がないため、お延に連絡することができない。今日、どうしてもお延に見舞いに来てもらっては困るという由雄は、手紙を書き、人力車の車夫にそれを自宅まで届けさせている。しかも、「電車で行くようにして下さい」と指示している。いくら車夫でも、電車に勝つことはできない。病院から自宅は電車1本で、ともに電停から近かった。
今日の公衆電話にあたる自働電話が東京に登場したのは1900年。上野駅と新橋駅である。翌年には17ヵ所に増設された。1907年、牛込区内にある自働電話は、代助が使った神楽坂下にある1台のみである。交番の数11ヵ所よりはるかに少ない(当時の交番はポリスマンボックス型)。麹町区内でも、津田が使用した飯田町四丁目をはじめ、麹町六丁目、日比谷の裁判所前(現、裁判所合同庁舎前)の計3台、神田区内は小川町と末廣町の2台、などといった状態であった。なにしろ、相手の家に電話がなければ、いくら自働電話がたくさんあっても、何の役にも立たないのだから、電話のある家が少ない状態では、自働電話が少ないのも当然といえば当然である。(なお、郵便局は、牛込区内で「漱石時代」に13局――漱石三兄直矩が勤める牛込郵便電信支局含む――と、今日より3局多く、麹町区内では、北西部にあたる青山通りから北の民家の多い地域の局数は、「漱石時代」に10局と、今日より2局多い。)
『彼岸過迄』では、須永や田口の家に電話があることがわかる。そして、ここでは敬太郎の下宿にも電話のあることが注目される。おかげで、田口と敬太郎のやり取りも手際よく進んでいる。一度は、田口から電話が掛って、
少し頼みたい事が出来たが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が要って却って面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細はそれを見て承知して呉れ。もし分らない事があったら、又電話で聞き合わしても可いという通知であった。
探偵に関する具体的指示であるから、電話より文書の方が良い。今なら、電話の後、ファックスかメールで連絡する場面であろう。『行人』でも、二郎の下宿には電話がある。母や妹から、さして重要でもない用事で電話があった。そして、ついに、二郎が待ちに待った「兄がHさんといっしょに旅行に出た」という連絡も、電話でもたらされる。掛けてきたのは嫂であった。
漱石の自宅に電話が取り付けられたのは、1912年12月である。流行作家の家としては遅いかもしれないが、当時の家庭からすれば、きわめて早く電話が入ったことになる。しかし漱石は、「電話はこちらからかけるためにつけた物だ。返事はしなくてもよろしい」と言って、家人に受話器を取らせなかったという(松岡陽子)。たしかに迷惑な電話も多いが、どの家も漱石の様であったら、電話はまったく用をなさないであろう。
『思い出す事など』に、東京大水害の無事を伝える鏡子の電話が、修善寺の漱石のもとに掛けられたことが記されている。この時、鏡子は《夜半に山田の奥さんの所から》電話を借りて掛けてきた。1914年の『漱石日記』(家庭日記)には、下女の電話のかけ方が悪いという不満が記されている。
なお、貴族院書記官長官舎には、漱石・鏡子の見合いがおこなわれた1895年当時、すでに電燈が点り、電話が敷かれていた。
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