やっと電話が普及し始めた頃の状況を、みごとに要約している。こんな細かな配慮も、生活者としての漱石ならでは魅力である。大阪の岡田の家には電話がなく、三沢からは結局手紙が届いている。
日本で初めての電信が開通したのは1869年、東京・横浜間であった。日本で初めての電話が開通したのは、それから21年後、1890年の東京・横浜間である。1899年、全国の電話台数は1万台、1910年には10万台、1922年には全国で40万台、東京で8万台に達していた。漱石死後においても、電話はまだあまり普及していない。同じ東京市内においても、お互いの連絡方法は直接行くのでなければ、郵便か、緊急の場合には電信(電報)である。『虞美人草』の宗近家、『それから』の代助の家には夜中郵便(夜中投函)が設けられている。これは門が閉まっている時に使用する郵便受である。
電話が普及する前の連絡方法をよく描いているのが『三四郎』である。大久保にある野々宮さんの家に行った三四郎。野々宮さんのところへ入院中の妹から電報が届き、急いで出かける。野々宮さんは帰って来ないし、重病ではないかと三四郎は心配している。夜11時を過ぎて、「妹無事、明日朝帰る」の電報が届く。こうした緊急連絡に対して、明日に関する連絡は郵便を利用している。三四郎のもとに美禰子から葉書が届いた。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうちまでいらっしゃい。」という内容である。菊人形を見に行くのは日曜日。美禰子はおそらく土曜日に着くことを想定して「明日」と書いたのだろう。当時の郵便はすでに何時配達されるか予測できるくらいに正確に配達されていたと思われる。それでも美禰子は心配だったのだろう。三四郎に会うなりすぐ、「端書は何時頃着きましたか」と聞いている。
美禰子は受取る相手のことを考えた文面を書いている。代助は平岡から届いた葉書から相手の状況を推察している。
同じ自働電話からお延は、病院、岡本、由雄の妹秀に電話を掛けている。一方、入院中の由雄は自宅に電話がないため、お延に連絡することができない。今日、どうしてもお延に見舞いに来てもらっては困るという由雄は、手紙を書き、人力車の車夫にそれを自宅まで届けさせている。しかも、「電車で行くようにして下さい」と指示している。いくら車夫でも、電車に勝つことはできない。病院から自宅は電車1本で、ともに電停から近かった。
今日の公衆電話にあたる自働電話が東京に登場したのは1900年。上野駅と新橋駅である。翌年には17ヵ所に増設された。1907年、牛込区内にある自働電話は、代助が使った神楽坂下にある1台のみである。交番の数11ヵ所よりはるかに少ない(当時の交番はポリスマンボックス型)。麹町区内でも、津田が使用した飯田町四丁目をはじめ、麹町六丁目、日比谷の裁判所前(現、裁判所合同庁舎前)の計3台、神田区内は小川町と末廣町の2台、などといった状態であった。なにしろ、相手の家に電話がなければ、いくら自働電話がたくさんあっても、何の役にも立たないのだから、電話のある家が少ない状態では、自働電話が少ないのも当然といえば当然である。(なお、郵便局は、牛込区内で「漱石時代」に13局――漱石三兄直矩が勤める牛込郵便電信支局含む――と、今日より3局多く、麹町区内では、北西部にあたる青山通りから北の民家の多い地域の局数は、「漱石時代」に10局と、今日より2局多い。)
『彼岸過迄』では、須永や田口の家に電話があることがわかる。そして、ここでは敬太郎の下宿にも電話のあることが注目される。おかげで、田口と敬太郎のやり取りも手際よく進んでいる。一度は、田口から電話が掛って、
探偵に関する具体的指示であるから、電話より文書の方が良い。今なら、電話の後、ファックスかメールで連絡する場面であろう。『行人』でも、二郎の下宿には電話がある。母や妹から、さして重要でもない用事で電話があった。そして、ついに、二郎が待ちに待った「兄がHさんといっしょに旅行に出た」という連絡も、電話でもたらされる。掛けてきたのは嫂であった。
漱石の自宅に電話が取り付けられたのは、1912年12月である。流行作家の家としては遅いかもしれないが、当時の家庭からすれば、きわめて早く電話が入ったことになる。しかし漱石は、「電話はこちらからかけるためにつけた物だ。返事はしなくてもよろしい」と言って、家人に受話器を取らせなかったという(松岡陽子)。たしかに迷惑な電話も多いが、どの家も漱石の様であったら、電話はまったく用をなさないであろう。
『思い出す事など』に、東京大水害の無事を伝える鏡子の電話が、修善寺の漱石のもとに掛けられたことが記されている。この時、鏡子は《夜半に山田の奥さんの所から》電話を借りて掛けてきた。1914年の『漱石日記』(家庭日記)には、下女の電話のかけ方が悪いという不満が記されている。
なお、貴族院書記官長官舎には、漱石・鏡子の見合いがおこなわれた1895年当時、すでに電燈が点り、電話が敷かれていた。