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29.漱石が描いた「現代」生活④
経済問題にも敏感だった漱石
漱石は実業界に身を置く人物を、何人か登場させている。『それから』の代助の父兄、『彼岸過迄』の田口、『行人』の二郎の父、『明暗』の吉川などは、こうした実業界で成功した人である。
日本の産業革命は1880年代後半から急速に進行した。1886年から89年にかけて鉄道や紡績を中心に会社設立ブームがおこり、「企業勃興」とよばれ、たくさんの資金が株式につぎ込まれていった。日清戦争(1894~1895年)後、再び「企業勃興」がおこり、その後も、好況と不況を繰り返しながらも、多くの企業が設立され、日本の産業は発展していった。「漱石時代」には、重工業部門が急速に成長していった。
『門』では、大学を出たばかりの佐伯の息子安之助も事業に乗り出そうとしている。
親譲りの山気が何処かに潜んでいるものと見えて、自分で自分の仕事をしてみたくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場を月島辺に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注ぎ込んで、一所に仕事をしてみようという考えになった。
土曜の午後2時過ぎ、宗助の留守中に佐伯の叔母が訪ねて来て、つぎのように話す。
「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船へ据え付けるんだとかってね貴方」御米にはまるで意味が分らなかった。
若者が起業する姿は、発展する日本の産業を象徴している。また、漱石は石油発動機船についても、正確に把握して作品の中に織り込んでいる。中部幾次郎(大洋漁業創業者、明石市出身)が日本最初の石油発動機船を開発したのは1906年。日本の漁業は動力船の時代へと大きく転換する。安之助が神戸へ行ったのもうなずける。『門』が書かれたのは1910年である。
『それから』では「日糖事件(日糖疑獄事件)」が取り上げられている。この事件は台湾産砂糖の移入に対する優遇措置(1902~06年)を、さらに5年間延長するよう、大日本製糖が何人かの衆議院議員を買収したもので、1908年に内部告発によって事件になり、1909年1月、「万朝報」のスクープによって明るみに出た。会社関係者が贈賄、議員が収賄で、何人も拘引され、有罪判決を受けた。門野は重役や代議士が拘引されるのを痛快がっているが、代助は自分の父兄も似たようなことをやっているのだろうと思っている。その父は近々実業界を退く意志のあることを代助に伝える。
けれども今は日露戦争後の商工業膨張の反動を受けて、自分の経営にかかる事業が不景気の極端に達している最中だから、この難関を漕ぎ抜けた上でなくては、無責任の非難を免かれる事が出来ないので、当分己を得ずに辛抱しているより外に仕方がないのだと云う事情を委しく話した。代助は父の言葉を至極尤もだと思った。
漱石は「日糖事件」についても、日記に細かく書き込んでいたが、日頃から経済問題にも関心を寄せ、状況を理解していたことがうかがえる。
東京株式取引所(現、東京証券取引所)は1878年に設立され、1890年代には市場規模拡大にともなって、立会場も新しくなっている。この頃には、株式取引所のある日本橋兜町一帯には、株式店が軒を並べるようになっていた。
漱石の作品では、『吾輩は猫である』からすでに株の話が登場する。苦沙弥先生のところへ鈴木藤十郎が来る。「君電気鉄道へ乗ったか」と先生。これに対して鈴木は「なんぼ田舎者だって――これでも街鉄を六十株持ってるよ」「ああ云う株は持ってて損はないよ、年々高くなるばかりだから」などと答えている。続いてやって来た多々良三平。苦沙弥先生に「教師をやめて実業家にでもならないか」と勧める。そして、細君に訊かれて貯金は50円になると言い、「奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買わないか、今から三四個月すると倍になる」と勧めている。
設定時期としてはほぼ同じ頃の『道草』にも株が出てくる。健三が金を借りに行った友達は、三年間中国の学堂で教鞭を取っていた頃に蓄えた金をすべて使って、電鉄などの株を購入している。また、細君の父は健三に二三千円の金をもっていないと、いざという時に困ると言い、「なに千円位出来ればそれで結構です。それを私に預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」と話している。細君の父は株にも手を出していたのだろう。健三には千円というまとまった金はもちろんなかったが、松岡陽子によると、漱石自身は中村是公や犬塚(小宮豊隆の叔父)などの勧めで株をもっていた。岩波茂雄が書店を設立する時、株券3000円ほどを用立てたという。
『野分』では中野の結婚披露宴で、参会者の中に株の話題をしている三人の男がいる。野添が人造肥料会社を起すので500株くらいもってくれと言われた。二週間ぐらいで、50円株が65円に上った。これならもう少し買っておけばよかった。頭の禿げたのがそんなことを言っている。高柳は恐る恐る彼等の傍らを通り抜ける。
生命保険と火災保険
1880年代は生命保険や火災保険が始まった時代である。生命保険においては、共済五百名社(1880年、安田生命)、明治生命(1881年)、帝国生命(1888年)、日本生命(1889年)などがあいついで誕生し、1890年代にはいっても40社以上が設立された。1894年が設立のピークであった。当初、生命保険の必要性はあまり理解されなかったが、皮肉なことに、日清・日露の戦死者で生命保険に加入していた人たちの遺族に保険金が支払われたことから、急速に普及していった。漱石の作品では、日露戦争中から書き始められた『吾輩は猫である』に生命保険の話が出てくる。
苦沙弥先生が日本堤へ行っている間に、姪で女学生の雪江がやって来て、叔母にあたる先生の奥さんと話している。奥さんはこの間保険会社の人が勧誘に来たけれど、先生は何やかやと理屈をつけて入らない。やがて、先生がもどってきて、吉原見物してきたことを雪江に非難され、「女学生と保険とどっちが嫌なの?」と訊かれた先生、つい「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入る。女学生は無用の長物だ」「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」「来月から這入る積だ」と、とうとう生命保険にはいることになってしまう。この辺りの問答は保険会社が聞いたら喜びそうな内容である。『道草』にも、健三の家に保険会社の勧誘員がやって来た場面がある。健三は名刺を見るさえ、有難くないと思っている。
火災保険の会社は、1887年の東京火災保険に始まり、明治火災保険(1891年)、日本火災海上保険(1892年)と相次いで設立されていった。『門』にはつぎのような一節がある。
小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険を付けないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずに置いた。
『門』は1909~1910年が設定時期である。小六は高等学校を卒業しようという頃である。逆算すれば、作品中の火事は1892年に起きた神田の大火である。猿楽町から出火し、小川町・表神保町・錦町などを中心に4000戸あまりが焼失し、三省堂も全焼した。火災保険の方もすぐに必要性を理解されたわけでなく、保険にはいっていない家も多かった。東京ではこの神田の大火をきっかけに普及していった(日本における火災保険支払い第一号は、浅草の牛肉屋と言われている)。神田では、1913年にも三崎町の救世軍から出火し、一ツ橋にかけて1500~2000戸ほどを焼き尽くす大火があった。
『道草』には再就職をめぐって窮地にある細君の父が、ある保険会社が月々100円の報酬で顧問を嘱託するという話があることを、健三に告げている。
漱石自身は生命保険や火災保険にはいっていたのだろうか。