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18.鏡子の出生地続編
先に、「11.鏡子の出生地」において、私は
おそらく鏡子は東京で生まれ、少し落ち着いてから、母カツは新潟の夫のもとに行ったのであろう。どうも、そう考えるのが、もっとも現実的なようである。誰か、具体的な資料や研究をご存知の方があったら、ぜひ紹介していただきたい。
と書いた。
先般、初めて漱石山房記念館を訪れた私は、図書室へ行けば何か手がかりが得られるのではないかと、地下の図書室の書架を順に探してみた。私の『漱石と歩く東京』も、黄色い表紙のおかげで、すぐ目にとまった。そして私は安田道義氏の著書『漱石と越後・新潟~ゆかりの人びと』(1988年、新潟日報事業社出版部)に巡り合った。これは期待できると目次を見ると、「鏡子と新潟」の項がある。
さっそく読んでみると、期待通り、《おそらく鏡子は東京で生まれ、少し落ち着いてから、母カツは新潟の夫のもとに行ったのであろう。》という、私の推察を裏付ける文章が書かれていた。私はその個所をコピーして、勇んで帰宅。荷物を開けてみると、記念館のパンフレットはあるのに、コピーがない。「これはきっと、図書室の机の上かどこかに忘れてきたに違いない」。休館日をはさんだ翌日に電話してみると、親切にあちらこちら探してくれたものの、結局見当たらないとのこと。コピーを依頼しようかとも思ったが、この際、他の箇所も読んでみようと、ネットで探して注文した。便利なもので、しばらくして『漱石と越後・新潟~ゆかりの人びと』が届いた。
「鏡子と新潟」の項では、『新潟に居た頃』という貴重な一文が掲載されている。これは1932(昭和7)年、鏡子が母から聞いたことに自分の記憶を重ね合わせ、娘婿の松岡譲に書いてもらったもので、高田の文芸誌「久比岐(くびき)」に掲載された。まさに私が待ち望んだ資料だが、鏡子の誕生日から、父中根重一の新潟赴任の時期に至るまで、一般的に知られているものと異なる。
『近代文学大辞典』で、鏡子の生年月日は1877(明治10)年7月21日とされているが、鏡子は6月28日生まれとしている。鏡子は自分の生まれた時のことを知るはずはないが、親などから誕生日は知らされているだろうから、間違えるとは考えられない。もちろん、当時は出生からかなり経って届けられることもあっただろうから、戸籍上7月21日というのも、ないとは言えない。また、ウィキペディアなどでは、重一の新潟赴任を1877年6月としているが、鏡子は秋としている。鏡子は、
父が新潟病院に赴任したのが明治十年の秋、一足おくれて私達が参ったのがその年の十一月、私はその年の六月二十八日に生まれたのですから、元よりその時の旅の記憶のあろう筈はありません。
と、語っている。重一の赴任時期は横に置いても、鏡子たちの新潟行きは、鏡子が生まれて数カ月経った11月とみて良いだろう。
ところで、鏡子たちがどのようにして新潟へ行ったのであろうか。今なら上越新幹線で短時間に行くことができる新潟も、明治10年頃には鉄道さえなかった。基本的に江戸時代と変わりなかったのである。
『新潟に居た頃』にもとづいて、鏡子たちの行程をたどってみると、
11月21日頃、神田駿河台の家を出て、人力車で中山道を進み、浦和・熊谷・高崎に宿泊。ここで中山道を離れ、渋川まで行き、駕籠に乗り換え、三国街道を進み、中山宿・永井宿と泊まって、三国峠を越え、浅貝・三俟(三俣)・六日町と泊まって、ここから舟で下り、長岡に宿泊して、さらに舟に乗り、ようやく新潟にたどり着いた。じつに9泊10日、江戸時代とさほど変わらない、ほとんど徒歩による大旅行であった。違うところと言えば、人力車が登場したことであろうか。
人力車と言っても、所詮「人力」によるもので、乗っている者は楽でも、車夫の人力に頼らざるを得ない。中山道を東京から浦和まで6里、熊谷16里、高崎26里。無理のないようにと、一日10里、およそ40キロの移動である。江戸時代、旅する人々は一日に30キロくらい歩いたというが、さほど差がなく、東京・新潟300キロ、確かに10日かかるわけである。
普通ならば万世から鉄道馬車にのってその日のうちに高崎迄行くというのが、当時の行程だったのを、女子供の初めての旅に無理があってはという薬屋さんの謀らいから、ずっと俥(筆者注、人力車か)でとおすということになり、
旅には、新潟病院出入りの薬屋の主人と、重一の叔父松三(当時15~6歳)が同行している。
この旅の記述で、鏡子はひとつ思い違いをしている。当時、鉄道馬車は走っていない。東京の新橋・日本橋間に東京馬車鉄道が開通したのは、1882(明治15)年、千住・幸手間に千住馬車鉄道が開通したのは1889年である。すでに鉄道の時代にはいっていた昭和初めからみれば、自分の記憶にはまったくない明治初め頃の「馬車」と言えば、「鉄道馬車」を思い浮かべても見当違いとは言えないだろう。明治10年頃の人びとが、そしておそらく中根重一も乗ったであろう馬車は、「乗合馬車」である。
近代以前の日本はヨーロッパなどと違って、馬車などの車を使用することが少なく、徒歩が圧倒的で、急ぐ場合は馬に乗って走った。荷物も人が担いで運ぶか、馬に担がせた。四方、海に囲まれた日本において、大量輸送機関の役割を果たしたのは船であった。そのようなことから、日本の道は馬車道として整備されてこなかった。それでも、江戸時代のいわゆる「五街道」は比較的整備されており、乗合馬車の運行が可能であった。
横浜の馬車道は有名であるが、1869(明治2)年、東海道を横浜・東京間、乗合馬車の営業が始められ、続いて、1872(明治5)年、中山道郵便馬車会社が神田昌平橋・高崎間に二頭立ての乗合馬車を運行した。鏡子が「鉄道馬車」と間違えたのは、この「乗合馬車」であろう。千里軒は1876年、浅草広小路・宇都宮間に乗合馬車を運行したが、これも日光道中・奥州道中と言った江戸時代の「五街道」を利用したものであった。東京から越谷まで運賃は49銭。1里7銭の割だったと言う。
中央集権国家と富国強兵をめざす明治政府にとって、徒歩中心の交通はきわめて不都合で、道路整備と鉄道建設は急務であったが、実際には、10年、20年とかかる大事業であった。――と、鏡子と新潟の出会いは、ずいぶん発展した話しになってしまった。