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30.地方の人びと、東京の人びと
上京した人々
小川三四郎が上京する場面から『三四郎』は始まる。漱石の小説は東京を舞台にしたものが多いが、その中には地方出身者も登場する。
三四郎同様、地方出身者であることがはっきりわかる人物は、『野分』の高柳周作、『それから』の三千代とその兄、『こころ』の私・先生・Kである。『三四郎』の野々宮宗八・佐々木与次郎・広田先生は明確ではないが、おそらく地方出身者であろう。
『琴のそら音』の余と津田真方は明確な記述がないが、つぎの一文から東京出身でないことがわかる。
「(略)明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男なんだから・・・」「何だい御みおつけと云うのは」「味噌汁の事さ。東京の婆さんだから、東京流に御みおつけと云うのだ。(略)」
『彼岸過迄』の田川敬太郎も、つぎのような表現から地方出身者とわかる。神田小川町の須永市蔵の家を訪ねた場面。
須永の家の前へ来て、わざと往来から須永々々と二声ばかり呼んで見たが、いるのか居ないのか二階の障子は立て切ったまま遂に開かなかった。尤も彼は体裁家で、平生からこういう呼び出し方を田舎者らしいといって厭がっていた・・・
襖の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長の下町風に品のある婦人であった。「さあどうぞ。もうその内帰りましょうから」須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣れない敬太郎はどうそれを断って外へ出て可いか、未だにその心得がなかった。
「江戸慣れない」という一言が地方出身者の東京における心持を端的に表している。また、彼は子供の時分に江戸時代の浅草を知る祖父から観音様の繁華を耳にしていたが、祖父の話から想像を膨らませていた浅草は、東京へ来てから手痛く打ち崩されてしまったという。
故郷東京に住む人々
『吾輩は猫である』の吾輩はもちろん東京生まれの猫である。苦沙弥先生は明確ではないが、漱石がモデルであるから東京生まれであろう。『野分』の中野輝一、『虞美人草』の甲野欽吾・藤尾、宗近一・糸子、『三四郎』の里見美禰子、『それから』の代助をはじめとする長井家の人々、『彼岸過迄』の須永市蔵やその叔父の田口・松本一家、『行人』の長野一家や三沢、『こころ』の静(先生の妻)やその母、『道草』の健三なども東京生まれで、引き続き東京に住んでいる。『明暗』の由雄・お延ともに、親は京都に住んでいるが、本人たちは東京で叔父一家に育てられてきた。
『二百十日』の圭さんと碌さんは阿蘇登山に来ているが、二人とも東京に生まれ、東京に生活している。
『坊ちゃん』は四国辺の中学教師になったが、しばらくして東京に戻った。『野分』の白井道也は八年程、地方で教師をやってから東京に舞い戻る。『虞美人草』の井上孤堂・小夜子父子も、京都生活に見切りをつけ、故郷東京に戻ってくる。小野清三については明確でないが、孤堂が小野のことを「京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分蒼い顔をしてね、」と言っているところから、小野もまた東京から京都の大学へ来て、井上の世話になったと考えられる。『坑夫』の自分は東京を飛び出して坑夫になったが、再び東京に戻った。『門』の宗助も西へ西へと、とうとう福岡まで行ってしまったが、東京に戻ることができた。
東京出身者で東京を出たきり、少なくとも作品中で東京へ戻らなかったのは、『草枕』の余だけである。余が入った床屋の主人、宿泊している志保田の隠居も東京出身で、今は那古井に住んでいる。
作品を読んでも、どこの出身か判然としないのが、『吾輩は猫である』に登場する迷亭、寒月を始めとする苦沙弥の友人や門下生などである。地方出身者も含まれていると思われる。『趣味の遺伝』の余も東京出身と思われるが明確ではない。『門』の御米については安井が嘘をついているのでよくわからない。地方出身者の安井は御米にお国訛りがないのは、横浜に長く住んでいたからだと説明している。
江戸っ子と田舎者
「東京と地方」という言葉がある。東京以外すべて地方であり田舎である。漱石には松山・熊本と二つの地方生活の経験があるが、どちらもきわめて受け入れ難いものであったようだ。東京にあるものはほとんどすべてが良く、地方にあるものはほとんどすべてが良くない。それが漱石の作品に脈々と流れている。東京を離れた人物の東京に対する望郷の念は、その多くが東京と地方の比較の形で語られている。
坊ちゃんは同級生と鎌倉へ遠足した以外、東京から出たことがない。その坊ちゃんが松山の町(作中に松山という地名は一切出てこないが)を散歩して、
県庁は前世紀(つまり一九世紀)の建築だし、兵営は麻布の連隊より立派でない。大通りは神楽坂を半分に狭くした位の道幅で、町並みは神楽坂より落ちる。蕎麦の下に東京と注があるから入ってみた蕎麦屋は滅法きたない。高級料理屋の料理も江戸前の料理を食ったことがないのだろうと思うくらい不味い。立派なのは温泉だけである。
と感じ、さらに、《おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない》と述べている。これだけ言われても松山の人たちが『坊ちゃん』を観光資源にしているのはいったい何故なのだろうか。
『坑夫』においても、《尤も東京の芋屋の様に奇麗じゃなかった。》という表現がある。そして、東京でも当時東京市外であった板橋はやはり田舎の部類で、《板橋街道の様な希知な宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道の様に我多馬車が通る。》と記されている。漱石にとってはよほど神楽坂が繁華に見えていたのか、ここでも神楽坂が出てくる。《町並が次第に立派になる。仕舞には牛込の神楽坂位な繁昌する所へ出た。》
『二百十日』では、東京の常識が阿蘇の温泉宿では通用しない、そんな場面が描かれている。食事の時、宿の女と圭さん・碌さんの会話。
「玉子なら御座りまっす」「その玉子を半熟にして来てくれ」「何に致します」「半熟にするんだ」「煮て参じますか」「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」「いいえ」「知らない?」「知りまっせん」(略)「(略)――姉さん、ビールも序でに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」「ビールは御座りまっせん」「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でない様な気がする。情ないところだ」(略)「ビールは御座りませんばってん、恵比寿なら御座ります」(略)「うん。実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んでみるがいい」「うん、それも好かろう。然しそれより前に文明の皮を剥かなくっちゃ、いけない」
『三四郎』でも、与次郎が九州から出てきた三四郎を「田舎者」扱いしている。
「講義が面白い訳がない。君は田舎者だから、今に偉い事になると思って、今日まで辛抱して聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼等の講義は開闢以来こんなものだ。今更失望したって仕方がないや」
その与次郎もひょっとしたら地方出身かもしれない。『こころ』の私も郷里へ帰るにあたってつぎのように考えている。
私は鞄を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇かすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。
『行人』では和歌山が酷評を受ける。閑静な電車に乗って、和歌山市から和歌の浦に着いた主人公、母、兄、兄嫁の一行が泊まった旅館は、
普請は気の利いた東京の下宿屋位なもので、品位からいうと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかった。
『虞美人草』では京都の電車さえ「田舎者」扱いである。京都から東京へ帰る急行列車の中で、甲野と宗近がこんな会話をしている。「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗った様な気がしない」と宗近が言う。「又夢窓国師より上等じゃないか」と甲野が受ける。
「ハハハハ第一義に活動しているね」「京都の電車とは大違だろう」「京都の電車か?あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」「乗る人があるからさ」「乗る人があるからって――余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」「ハハハハ京都には調和している」「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日の如しと云うのは賞める時の言葉なんだがな」
『坊ちゃん』において、温泉だけはほめられた。『二百十日』では、温泉町を散歩してきた圭さんと、その様子を聞く碌さんの会話に、山里の風情に対する評価がうかがえる。
「呑気だから見ていたのさ。然し薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だね。ぴちぴち火花が出る」「出るさ、東京の真中でも出る」「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、此所まで聞えるぜ」
とは言っても、ほとんどにおいて、東京は良いのである。おそらく漱石は東京に生まれたことをきわめて誇りに思っていたであろう。それは、「江戸っ子」という言葉で表現される。
『草枕』では主人公と那古井の床屋の間で、しばし「江戸っ子」談義が交わされる。どういうわけか床屋も東京出身である。
「失礼ですが旦那は、矢っ張り東京ですか」「東京と見えるかい」「見えるかいって、一目見りゃあ、――第一言葉でわかりまさあ」「東京は何所だか知れるかい」「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え?それじゃ、小石川?でなければ牛込か四谷でしょう」「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」「こう見えて、私も江戸っ子だからね」「道理で生粋だと思ったよ」(略)「(略)所は神田松永町でさあ。なあに猫の額みた様な小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえ筈さ。あすこに竜閑橋てえ橋がありましょう。え?そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代な橋だがね」
もちろん、漱石の「江戸っ子」には一定の品質基準があるようで、坊ちゃんは、江戸っ子で華奢に小作りに出来ており、『坑夫』では、抗夫仲間に入った新参の主人公が「僕は東京です」と答えて、「僕だなんて――書生ッ坊だな。」と冷やかされている。どうやら、華奢で知的な人物が「江戸っ子」の名に値し、『坊ちゃん』に出てくる画学の教師野だいこのような人物は「江戸っ子」の名折れにあたるようだ。
べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、御国はどちらでげす、え?東京?そりゃ嬉しい、御仲間が出来て・・・私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生まれたくないもんだと心中に考えた。江戸っ子は軽薄だと云うが成程こんなものが田舎巡りをして、私は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。
『坊ちゃん』ではこの他、九章でもひとしきり、江戸っ子論が展開される。
東京へ帰る
「御米、とうとう東京へ行けるよ」
旧友杉原の計らいで、福岡から東京へ移れるようになった時、『門』の主人公宗助は妻御米に言った。どちらかと言うと常に自分の感情と思いを抑制しがちな宗助にしては、晴れやかな響きを持っていたに違いない。
故郷への思いは人それぞれあるにしても、東京を故郷に持つ人にとって、故郷を離れることは同時に「都落ち」を意味する。『坑夫』では、訳あって東京にいられなくなり逃げ出した19歳の主人公が描かれる。東京から逃げてきたにもかかわらず、《これから向かう世界は、到底抜けることが出来ない曇った世界で、東京は暖かく朗らかで、おういと日陰から呼びたくなる位明かに見える。》のである。東京に対する絶ちがたい思いは、昨夕、主人公が東京を立ったことが、三回記述されていることにもこめられている。《東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった。》《東京を立った昨夕の九時から、こう諦めはつけてはいるが、さて歩き出してみると、歩きながら気が気でない。》《昨夕東京を立ってから、まだ人間に口を利いた事がない。》
したがって、東京へ帰ることは単に故郷に帰るという以上に、都への復帰を意味する。そして、二度と地方、すなわち田舎へは下りたくないのである。これはきっと、漱石の心持でもあるのだろう。
『坊っちゃん』では、田舎の中学校に勤めていた坊っちゃんは、トラブルが起こるや、さっさと辞表を提出して東京へ帰ってしまう。新橋へ着いた時、坊っちゃんは漸く娑婆へ出た様な気がしたという。そして、下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清のところへ飛び込む。
あら、坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
『野分』では、文学者の白井道也が、八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、飄然と東京へ戻って来る。東京へ着いた白井夫妻は芝琴平町の安宿に身を寄せる。芝琴平町は現在の虎ノ門一丁目で、当時の新橋駅から一キロほどのところにある。道也は妻に、《「だからさ、もう田舎へは行かない、教師にもならない事に極めたんだよ」》と言い出す。