かつて健三の養父であった島田はこのようにして『道草』に登場して来ます。この島田のモデルが、漱石の養父・塩原昌之助であることは、よく知られています。たしかに、漱石が九歳か十歳の頃に撮影されたという写真の昌之助は、髪をオールバックにして、鼻の下が長い。『道草』に出てくる通りです。
『道草』に描かれた島田は、どうもあまり印象は良くありません。おかげで、昌之助の印象もそのまま悪印象。けれども、「ほんとうにそうなのか?」と疑いの目をむけるのが私の癖で、ここで少しばかり、昌之助の弁護役を買って出たいと思います。
昌之助は1874年、日根野かつと不倫関係に至りますが、妻やすと別れた後、1919年に亡くなるまで、45年にわたって後妻かつと連れ添っているのですから、「女たらしの浮気者」ではなさそうです。住居も1877年に下谷区西町4番地(現、台東区東上野2丁目8~9番)に家を新築して以来、住み続けています。『道草』では、お縫さんとして登場する、かつの連れ子れんに対しても、当時、ほとんどの女の子が行くことさえできない高等女学校まで進学させています。カネに対する執念はあったかもしれませんが、人間関係を継続するだけの人柄を持ち合わせていたことも確かではないでしょうか。
漱石自身も養父母に大切に育てられ、かわいがられ、虐待を受けた痕跡など、まったくないように、私には思われます。
漱石は古今東西の文化に精通した、類まれな人物。その一翼を担うのが江戸文化です。漱石はそれを寄席で学びました。昌之助は日本橋瀬戸物町にあった伊勢本という寄席に、子ども時分の漱石をしばしば連れて行きました。もし、昌之助がいなかったら、漱石は寄席を通じて子規に出会うこともなく、「漱石文学」も生まれなかったかもしれないのです。そう考えれば、文豪夏目漱石の「生みの親」と言っても良い昌之助が、死後百年近く経っても、世間から悪い印象をもたれているのは、はなはだ気の毒と言わなければなりません。