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19.『こころ』ごっこと新潟
『こころ』のKとは、いったい誰なのか。さまざまな推察がなされている。この文学館でも、「漱石気分」の「13.漱石の『こころ』がわからない」で、清沢満之説、石川啄木説、幸徳秋水説など、いくつかの説があることを紹介しているが、私は『漱石と日本国憲法』において、
Kは真宗寺の次男です。「先生」と同じ新潟県の出身でした。Kの設定で私が思い出すのは松岡譲です。松岡譲は新潟県長岡市近郊にある真宗の寺の次男。
としながら、松岡ならイニシャルはMとならなければならない。そこで、Kと言って思い出すのが、久米正雄。
松岡と久米は漱石の長女筆子を奪い合った仲です。結局、筆子は松岡を選び、結婚します。松岡と久米とを混ぜ合わせると『こころ』のKができあがります。
ところが、『こころ』のKのモデルが松岡や久米でないことは明らかです。二人が芥川龍之介らと木曜会に顔を出すようになったのは、『こころ』の連載が終って一年以上経過した1915年の冬にかかろうとする時期でした。そして、二人が筆子を奪い合ったのは漱石死後であり、筆子と松岡の結婚は1918年です。『こころ』を書いていた時、漱石は松岡も久米も知らなかったし、まさか自分の娘が『こころ』のお嬢さんのような出来事に巻き込まれようとは思ってもいなかったでしょう。松岡と久米が図って『こころ』ごっこをしたわけでもないでしょうが、この酷似はいったい何なのでしょうか。
私はこのように書いたのであるが、先般出会った、安田道義氏の著書『漱石と越後・新潟~ゆかりの人びと』(1988年、新潟日報事業社出版部)に興味深い記述をみつけたので、紹介したい。
「6.漱石、鏡子、長女筆子と松岡譲」の「(三)夏目筆子と松岡譲の恋」には、-「こころ」との相似-という副題がつけられているが、その中で筆者はつぎのように記している。
未亡人鏡子の家に松岡と久米が下宿人同様の生活をすること、松岡が浄土真宗の寺の出身であり、哲学を専攻したことなど、漱石の作品「こころ」の筋書と奇妙に似ている。偶然の一致とはいえ、何か因縁を感じさせる事実である。
松岡自身も「漱石先生」で次のように言っている。〈それ程親しかった私と久米の間に不幸な事例があって……何だか先生のある小説を私達は地で行ってしまったような気さえ当時はしたものだ〉
この後、松岡・久米・筆子・鏡子のからみが書かれているが、ここでは紹介を略したい。
漱石没後一年半の1918年4月25日、筆子は松岡と結婚。聖一・新児、明子・陽子・末利子の二男三女が生まれている。陽子は『漱石夫妻愛のかたち』を書いた、松岡陽子マックレイン、末利子の夫は半藤一利。漱石を伝承する孫世代を形づくるが、松岡自身も鏡子に気に入られ、いっしょに旅行したり、『漱石の思い出』を世に送り出したりしている。1944年、松岡一家は長岡に疎開。やがて鏡子もやって来て、いっしょに住んだ。
松岡にお嬢さんを奪われた久米は、自殺しなかったかわり、曝露小説を書くなど、きわめて攻撃的な態度に出ている。久米が松岡に正式謝罪したのは、戦後の1947年。終戦後、鏡子は東京へ戻ったが、松岡は『こころ』の先生のように、お嬢さんとともに、長岡で静かな生活を送るのである。
鏡子は1963年4月18日、86歳で亡くなり、松岡は、それから6年後の1969年7月22日、長岡で亡くなった。突然の夫の死後、東京へ戻った筆子は、1989年7月7日、90歳で他界した。
『こころ』ごっこは、こうして幕を閉じた。