この後、松岡・久米・筆子・鏡子のからみが書かれているが、ここでは紹介を略したい。
漱石没後一年半の1918年4月25日、筆子は松岡と結婚。聖一・新児、明子・陽子・末利子の二男三女が生まれている。陽子は『漱石夫妻愛のかたち』を書いた、松岡陽子マックレイン、末利子の夫は半藤一利。漱石を伝承する孫世代を形づくるが、松岡自身も鏡子に気に入られ、いっしょに旅行したり、『漱石の思い出』を世に送り出したりしている。1944年、松岡一家は長岡に疎開。やがて鏡子もやって来て、いっしょに住んだ。
松岡にお嬢さんを奪われた久米は、自殺しなかったかわり、曝露小説を書くなど、きわめて攻撃的な態度に出ている。久米が松岡に正式謝罪したのは、戦後の1947年。終戦後、鏡子は東京へ戻ったが、松岡は『こころ』の先生のように、お嬢さんとともに、長岡で静かな生活を送るのである。
鏡子は1963年4月18日、86歳で亡くなり、松岡は、それから6年後の1969年7月22日、長岡で亡くなった。突然の夫の死後、東京へ戻った筆子は、1989年7月7日、90歳で他界した。