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20.漱石と大宮
大宮というと、私の頭に浮かぶのは「鉄道の町」、そして鉄道ファンとしては聖地のような「鉄道博物館」がある町。その程度の私に、さらなる大宮の魅力を教えてくれたのが、NHKの「ブラタモリ」、第77回「大宮」(2017年7月1日放送)。
「鉄道の町」大宮には、最初に鉄道が敷かれた時、駅がなかった。東京以北の鉄道建設が日本鉄道によっておこなわれ、1883年に上野・熊谷間が開通した時、県庁所在地浦和の次の駅は上尾。当時は蒸気機関車で加速が苦手なため、駅間の距離はかなりあけられていた。浦和の次が大宮では、あまりにも近すぎた。それに、中山道大宮宿はあっても、全体の戸数が少なく、駅をつくるほどではないと判断された。ところがさまざまな経緯から、東北線分岐点が大宮に決定し、1885年3月16日、大宮駅が開業した。駅開設には大宮宿衰退を危惧する白井助七をはじめとする地元有志の働きも大きく、1894年には白井が提供した土地に鉄道の大宮工場が建設され、「鉄道の町」へと発展していった。宿場町が鉄道忌避をした例はいくつもあるが、大宮は宿場町でありながら、駅がつくられなかったことによって、かえって鉄道への願望が強まり、鉄道と共に発展していったのだから皮肉なものである。
「大宮」と言う地名は、何気なく私を通り過ぎていたが、よく考えてみると、「大きな宮」があるところ。なぜ、こんなかんたんなことに気づかなかったのだろう。それを気づかせてくれたのが、ブラタモリである。「大きな宮」とは、武蔵一宮の氷川神社。東京・埼玉を中心に約200社ある氷川神社の本宮、「大いなる宮居」である。天皇が京都から東京に移って、わずか一カ月後に行幸したのがこの氷川神社で、つまり、京都の一宮にあたる賀茂神社に匹敵する神社として格付けされたのである。大宮宿の南口から神社にむかって、まっすぐ北へ伸びる参道は2キロ。両側には、ケヤキ・クスノキ・エノキなど30種以上、約700本の樹木が植えられている。今でも初詣には、200万以上の人が訪れると言う。
東京から近い。鉄道駅もできて便利になった。最高級に格付けられた氷川神社に多くの人を呼び込むことができれば、地域活性化につながることは間違いない。そこで、地元の人びとと神社が連携し、官有地として上げ地された社領地を公園として整備することになった。こうして生まれたのが氷川公園で、戦後は大宮公園と呼ばれている。
公園内にはアカマツなど樹木が多かった。しかしながら、人を呼び込むことができる樹木と言えば、何と言っても桜の木で、積極的に桜が植えられ、今日、「日本さくら名所100選」に選ばれるまでになっている。人が集まれば、神社への参拝も増える。宿泊する人や宴会をする人も増えるから、樹木に覆われた園内には料亭や旅館も建つようになる。そこへ、樋口一葉もやって来る。森鴎外もやって来る。太宰治は『人間失格』第三の手記後半を、ここで書き上げたと言う。そして、前置きが長くなったが、正岡子規、夏目漱石もこの地にやって来る。
子規は1883年に上京し、大学予備門で漱石と同級であったが、親しくなったのは1889年頃で、寄席が取り持つ縁であった。そしてふたりは1890年、帝国大学文科大学に入学した。
それから1年。1891年。夏休み、漱石は1887年についで2回目となる富士登山をおこなった。夏休みが終わり、9月から新学期が始まり、漱石は帝国大学の文科大学英文科2年に進級していたが、国文科の子規は6月におこなわれた1年の学年試験を途中で放棄して、信州の旅に出かけてしまったため、9月に追試を受けなければ進級できないことになっていた。子規は2年前に喀血し、さほど生きられないと感じ、とにかく自分が大好きな「書くこと」に集中しようとしていた。当時、結核は不治の病であり、死亡率も高かった。漱石は書くためには、読むことも大切であると、読書の勧めをしていたが、子規は書くことを優先し、その材料を集めるためには、進級試験を放り出してまでも、旅することの方を優先していた。(漱石自身も1894年に結核と診断され、大きな衝撃を受けている。)
入学したからには何とか卒業して欲しいと願っていた漱石は、7月16日、《試験はぜひ受ける積りでなくては困ります》と子規に宛てて書簡を出した。友人の思いが通じたのか、まったくの気まぐれかわからないが、子規は9月になると、追試の準備をするため、前置きで記した氷川公園(大宮公園)の中にある万松楼(ばんしょうろう)に宿を取った。万松楼は料亭兼旅館で、現在の児童公園付近にあったと言う。子規はつぎのように『墨汁一滴』に書いている。
九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうもないから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼といふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。
漱石の方は、大学に子規の追試のことを問い合わせ、試験のポイントを同級の菊池寿人から知らせる手筈も整え、試験に対する助言も書いて、万松楼にいる子規に書簡を送った。
子規の方は、とても良いところだから、漱石にもそれを味わってもらいたいという思いから、一方、漱石は子規がほんとうに試験勉強しているか心配になって、まったく違う思いがひとつになって、漱石は子規の誘いに乗って、大宮へ、万松楼へやって来た。9月13日と言われている。
或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松楼に居るからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗なうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処で鶉か何かの焼いたのなどを食わせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうでは無かった。身代を皆食いつぶしていたのだ。(『正岡子規』)
それから夏目漱石を呼びにやつた。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかつたが頭の保養には非常に効験があつた。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。(『墨汁一滴』)
結局、子規は翌1892年、日本新聞社に入社し、大学は退学した。それでもふたりの交流は続き、夏、いっしょに京都・堺などを旅し、神戸で別れて、子規は郷里松山へ、漱石は岡山へ行って大水害に遭い、その後、金毘羅宮から松山へむかい、初めて高浜虚子に会い、子規といっしょに帰京した。漱石は1893年7月、大学を卒業し、大学院へ進んだ。
漱石と子規。このまったく違うタイプのふたりが、喧嘩しながらも友人であり続けた。何か自分にないものを求め合って、ふたりの交流は続いたのかもしれない。大宮の一件は、そのようなふたりの逸話のひとつである。
追記
万松楼はじめ園内の料亭・旅館では「鯉こく」や「鶉料理」が名物になっていた。鶉と言うと、今日では卵だけ食材になっているようだが、江戸時代以来、鶉汁、串焼き、鶉肉炒め、鶉の洗い、鶉包丸ごと醤油煮などなど、さまざまな鶉肉料理がつくられてきた。
「小鳥を食べる」と言うと、私はスズメを思い出す。子どもの頃、汲み取りに来ていた農家の方が、日頃のお礼に招待してくれた。今ではおカネを払って、排泄物を処理してもらっているが、当時は農家がカネを払って排泄物を買って行ってくれたのである。肥料代である。さすがに、おカネのやり取りはなかったようだが、その代わりの招待だったのだろう。詳しい経緯は子どもの私にはわからないが、とにかくスズメの丸焼きを出されたことだけは覚えている。
京都の伏見稲荷、東京入谷の鬼子母神などの参道でも、スズメの焼き鳥が売られていたとのことだが、スズメ捕獲の規制が厳しくなって姿を消し、かわって、鶉の焼き鳥が脚光を集めていると言う話も聞こえてくる。