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21.東京大水害
1910年、8月に入っても梅雨前線が本州付近に居座り、各地で雨が降り続いていた。長与胃腸病院を退院した漱石は、8月6日、転地療養のため修善寺菊屋旅館に着いた。これは松根東洋城の誘いによるもので、当初の予定ではいっしょに来ることになっていたが、何かの手違いで漱石一人来ることになってしまった。東洋城は北白川宮のお供で修善寺に逗留することになっていたので、身近に漱石の世話をすることもできると思ったのだろう。
8日から9日にかけて、二つの台風が接近して梅雨前線を刺激したため、東海地方で大雨となり、静岡県中部の大井川筋にある徳山では、二日間に600mmを越える雨が降った。その後、9日から10日にかけて、伊豆・箱根そして東京へと大雨の区域は東へ移動した。11日から13日にかけては、台風が相次いで上陸したこともあり、大雨の区域は関東一帯に広がり、一連の豪雨で、全国における死者・行方不明者1383人、うち関東地方の死者921人という一大気象災害に発展した。
9日・10日と修善寺辺りも豪雨の被害が出ていたが、東京を含む関東各地でも未曾有の大水害に見舞われていた。隅田川が氾濫し、とりわけ浅草から向島・千住は惨状をきわめた。帰京後、長与胃腸病院入院中に執筆された『思い出す事など』には、つぎのように記されている。
東京から来る郵便も新聞も悉く後れ出した。たまたま着くものは墨が煮染む程びしょびしょに濡れていた。湿った頁を破けない様に開けて見て、始めて都には今洪水が出盛っているという報道を、鮮やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日の事であったか、(略)
漱石は東京と遮断されてしまった自分を心細く思い、我が家が崖とともに崩れる姿や、茅ヶ崎の海に押し流される我が子を思い描いたり、不安な日々を過ごす。やがて森田草平を煩わせたと思われる鏡子からの電報を受取る。家も家族も無事らしいということが何となくわかる。さらに鏡子から電話があり、続いて手紙が届く。
妻の手紙は全部の引用を許さぬ程長いものであった。(略)その外市中大抵の平地は水害を受て、現に江戸川通などは矢来の交番の少し下まで浸った為め、舟に乗って往来をしているという報知も書き込んであった。
矢来の交番は牛込台へ上る坂の始まりの位置にあり、確かに台地の下ではあるが、江戸川橋から見れば高くなっている。そこへ神田川(江戸川)からあふれた水が来たのであるから、すごい洪水であったことがうかがえる。などと、気象災害に興味をもつ私は呑気なことを言っているが、当の漱石自身の関心は《己だけに密接の関係ある個人の消息にあった。》として、その個人の二人までが生死の境を経験したことが記されている。一人は鏡子の妹梅子、もう一人は森田草平である。漱石の率直な物言いである。
森田の家、つまり一葉終焉の家の終焉はこのようであった。
妻が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞の積で柳町の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、此処らだがと思いながら、表から奥を覗いて見ると、かねて見覚のある家がくしゃりと潰れていたそうである。「家の人達は無事ですか、何処へ行きましたかと聞いたら、薪屋の御上さんが、昨晩の十二時頃に崖が崩れましたが、幸いに何方も御怪我は御座いません。一先ず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来てみると、まだ水の引き切らない床下のぴたぴたに濡れた貸家に畳建具も何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いか憐れな姿でお種さんが、私の顔を見ると馳け出して来ました。……晩の御飯を拵える事も出来ないだろうと思って、御寿司を誂えて御夕飯の代りに上げました……」草平君は平生から崖崩れを恐れて、出来るだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家が潰れた時には、外のものがまるで無難であったにも拘わらず、自分だけは少し顔へ怪我をしたそうである。その怪我の事も手紙の中に書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。
『思い出す事など』は、日付の明確でないものもある。情報の遅れもあるが、漱石自身の病状によるところも大きい。梅子や森田が生死の境を経験した10日頃、漱石もまた生死の境をさまよっていた。その後、いったん持ち直したものの、17日から病状は悪化し、とうとう24日、大量吐血して危篤に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。
病んで夢む天の川より出水かな
漱石は小康を得て、10月11日、帰京し、そのまま長与胃腸病院に入院したが、修善寺を発つ時も、東京に着いた時も雨だったという。
9月からの第一高等学校入学をひかえていた芥川龍之介は、本所小泉町(現、両国二丁目)で被災した。かつて漱石が教えた江東義塾の少し北、両国駅の南側、回向院との間にあたる。芥川家は水害の危険を避けるため、内藤新宿二丁目71番地の耕牧舎牧場の一隅にあった新原敏三持家に移転した。
『それから』で代助の揺れる心が表現される江戸川は、作中にも出てくるように桜の名所であった。川縁の桜は明治の中頃、石切橋から隆慶橋の間の土手に地元の人々が植樹したもので、明治後期には東京における桜の名所のひとつになった。しかしながら、1910年の水害をきっかけに治水工事がおこなわれ、桜の木も切られてしまった。現在では土手もなくなり、コンクリートの垂直壁で囲まれた掘割と化し、さらに目白通りを併走する首都高速道路5号池袋線の高架が江戸川に覆いかぶさるように通っている。まったく風情がなくなってしまったが、小桜橋(前田橋の代わり)・中之橋・白鳥橋・隆慶橋をジグザグに渡って、代助の揺れ動く心を体験し、トッパン小石川ビル前に架かる中之橋で恋人に思いをはせるのも一興かもしれない。