1910年、8月に入っても梅雨前線が本州付近に居座り、各地で雨が降り続いていた。長与胃腸病院を退院した漱石は、8月6日、転地療養のため修善寺菊屋旅館に着いた。これは松根東洋城の誘いによるもので、当初の予定ではいっしょに来ることになっていたが、何かの手違いで漱石一人来ることになってしまった。東洋城は北白川宮のお供で修善寺に逗留することになっていたので、身近に漱石の世話をすることもできると思ったのだろう。
8日から9日にかけて、二つの台風が接近して梅雨前線を刺激したため、東海地方で大雨となり、静岡県中部の大井川筋にある徳山では、二日間に600mmを越える雨が降った。その後、9日から10日にかけて、伊豆・箱根そして東京へと大雨の区域は東へ移動した。11日から13日にかけては、台風が相次いで上陸したこともあり、大雨の区域は関東一帯に広がり、一連の豪雨で、全国における死者・行方不明者1383人、うち関東地方の死者921人という一大気象災害に発展した。
9日・10日と修善寺辺りも豪雨の被害が出ていたが、東京を含む関東各地でも未曾有の大水害に見舞われていた。隅田川が氾濫し、とりわけ浅草から向島・千住は惨状をきわめた。帰京後、長与胃腸病院入院中に執筆された『思い出す事など』には、つぎのように記されている。