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22.漱石と中勘助
小説家になる人は読書家で、小説を読み漁った時期のある人が多いようだ。漱石は小説家を目指したわけではないが、読書家だった。小説家になる夢をもちながら、読書好きでなかった私は、読書感想文を書く時、渋々小説を読むくらいで、それも「あとがき」を読んで、補足的に本文の一部を読んで感想文を書くこともあった。結果、やはり小説家にはなれなかった。当然のことである。
そんな私も、小説そのものを嫌いだったわけではないので、国語の教科書に出て来た小説で、印象に残っているものがいくつかある。そのひとつが高校で読んだ『銀の匙』。これは小説なのか、自叙伝なのか。創作なのか、現実なのか。山があるような、ないような、淡々と続く作品であった。この不思議な『銀の匙』という作品とともに、中勘助の名前は私の中に焼き付いた。『銀の匙』と言えば中勘助。中勘助と言えば『銀の匙』。それ以外には何もない。1曲だけヒットをとばして、消えてしまった歌手のようである。そんな歌手が再び蘇ったように、漱石を追っかけている私の中に、忽然と中勘助が蘇って来た。
中勘助は1885年5月22日、神田東松下町で生まれた。現在の神田駅と地下鉄都営新宿線岩本町駅の間の地域で、お玉ケ池がすぐ近くにあった。士族の家柄で父は厳格な人だったという。母親の産後のひだちが悪く、同居していた叔母に育てられた。
勘助5歳の時、一家は小石川区(現、文京区)小日向水道町92番地に転居した。小日向台の崖下に沿うように延びる水道端の通り。黒田小学校(戦後、区立第五中学校になり、2009年、生徒数減少によって第七中学校と統合され、音羽中学校として大塚へ移転後、文京総合福祉センターが建っている)の横から服部坂を上り、小日向神社のところで左折して200メートルほど行った左側に、かなり広大な敷地をもっていた。当時、すぐそばに龍興寺があった。寺はその後なくなり、現在、一帯は小日向住宅になっている。
服部坂を上ったところというと、漱石の絶筆『明暗』の主人公津田の妻お延の叔父岡本の家がこの辺りに設定されている。一方、水道端の道を西へ行って、つぎの坂、つまり大日堂の前を通る大日坂を上ると、津田の叔父藤井の家が設定されている。小日向台の上では、岡本と藤井の家は近く、子どもたちも行き来しているが、服部坂と大日坂は並行して、交わることがない。こんなところにも、漱石の巧みな仕掛けが感じられるが、土地勘のない人間には、何も感じられないかもしれない。「坂」を描かせたら、タモリもびっくりの漱石先生である。
漱石は、『三四郎』において、原口の家を平塚らいてうの家辺りに設定しているが、『明暗』の岡本の家を設定するにあたって、漱石は勘助の家辺りを念頭に置いたのではないだろうか。そして、岡本の家が設定されれば、図式的に藤井の家は決定されていく。
勘助は永井荷風や黒澤明などの母校でもある黒田小学校を経て、府立第四中学校(現、戸山高校)、第一高等学校、東京帝国大学文学部英文科へと進学した。一高では同期に、藤村操、安倍能成、小宮豊隆、野上豊一郎、岩波茂雄など、今日でも名の知られた人たちがおり、勘助もその中にあって、一高、東大と、漱石の講義を受けている。
1903年、イギリス留学から帰国した漱石は、4月から一高・東大で教え始めた。そして、5月22日、一高生の藤村操が華厳の瀧から投身自殺を図った。傍らの木に彫られた遺書「巖頭之感」には、「不可解」の一語もみられる。自殺動機の真相はわからないが、漱石は藤村の英語の授業を担当しており、自殺直前の授業で、「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っている。漱石はそのことが一人の若者を死に追いやったのではないかと、漱石なりに責任を痛感していたのではないだろうか。この頃から、漱石の神経衰弱と、家庭内暴力が激しくなり、妻子との別居生活にまで発展していった。同じく一高に在籍していた岩波茂雄も、藤村の自殺にショックを受け、結果的に落第、退学処分の道を歩むことになってしまった。
じつは、この渦中に勘助もいたのである。勘助が藤村の自殺をどのように受け止めたのか、私はそれを知る資料を持ち合わせないが、講義をしている漱石の姿は、勘助が書いた『夏目先生と私』から、その一端をうかがい知ることができる。
今度の英語の先生はひどく生徒いじめの激しい人らしいという噂に怖気づいていた一高生の勘助。ある日、「外のほうを見て講義をきいていないのかと思うときいている人がある」と漱石に言われた。それが勘助の琴線に触れたのか、
それから私は一層遠慮なくそういう風にした、なぜならばそれが先生に気に入るといらないとはさておいて私が講義を聴いてるということは分ってるのだと思ったから。
勘助は詩人志望で、漱石が『吾輩は猫である』を書いて注目を浴びるようになっても、特段の興味はなかったようだ。けれども、漱石の人となりには惹かれるものがあったようで、漱石のもとに集まる学生のひとりになっていた。その学生たちは、漱石の煩わしさを気づかって、1906年10月中旬から、面会日を毎週木曜日の午後3時以降と決め、いわゆる「木曜会」は、漱石が西片町へ転居しても、1907年に教師を辞め、朝日新聞に入社し、小説家を職業とするようになっても、その年、早稲田南町へ引っ越してからも続けられた。
ところが、この「木曜会」を外れて、漱石と面会することを許された唯一の人物がいた。幼少期には外で遊ぶことなく、叔母以外の人と接することも少なく、その後も人と交わることが苦手で、漱石をして「僕も変人だけれど中は随分変人だね」と言わしめた中勘助である。このような配慮と、自分に対する理解が勘助にとって、漱石に惹かれる大きな要因となっていたのだろう。教え子である藤村の自殺を経験した漱石は、勘助も自殺するのではないかと心配していたという。
「木曜会」が始まった時、勘助は21歳だったが、22歳で勘助は英文科から国文科に編入した。この頃、勘助の父が亡くなった。
1910年、勘助の卒業間近か。14歳年上の兄金一が脳出血で倒れて、心身の機能が大きく損なわれ、寝たきりの生活になってしまった。金一は東京帝国大学医科を卒業し、ドイツ留学を経て京都帝国大学福岡医科(後の、九州帝国大学医科)教授を務めていた。思いもかけず一家を背負うことになった勘助は、近衛歩兵連隊に入隊したが、病気になって半年余りで除隊になった。小日向水道町にあった自宅は岩波茂雄に売却し、一家は赤坂表町(赤坂離宮・青山御所、現在の赤坂御用地南側。高橋是清翁記念公園やカナダ大使館がある辺り)に引っ越したが、勘助は各地を転々としていた。赤坂表町の様子は、漱石の作品では『それから』(1909年)に、電車で青山の実家へむかう代助の描写で登場する。
1912年。詩人を目指していたはずの勘助が、小説を書いた。長野県の野尻湖畔に滞在していた勘助は、『銀の匙』前編を書き上げ、原稿を漱石に送った。漱石は作品をほめ、朝日新聞への連載を取り計らった。こうして1913年4月から6月まで、『銀の匙』前編は朝日新聞に連載された。その頃、漱石は病気で『行人』の連載を中断するような状況であった。
勘助は脚気の療養をしながら、比叡山延暦寺で後編を執筆し、1915年、前編同様3ヶ月間、朝日新聞に連載された。勘助は詩的な前編の方を好きだったようだが、漱石は後編の方が細かい描写や独創があって良いと評価していたという。
漱石は1916年12月9日、亡くなった。翌1917年6月に発表された『夏目漱石と私』の中で、勘助はつぎのように書いている。
私は自分の性格からして自分の望むほど先生と親しむことが出来なかった。寧ろ甚だ疎遠であった。私はまた先生の周囲に、また作物(作品という意味)の周囲にまま見かけるやうな偶像崇拝者になることも出来なかった。唯先生は人間嫌いな私にとって最も好きな部類に属する人間の一人だった。
もし、勘助が漱石と出会わなければ、『銀の匙』も生まれなかっただろうし、死後50年余を経て、こうして文章に書かれる人物になることもできなかったであろう。
銀の匙麦粉そなへむ漱石忌(中勘助)
野上弥生子の初恋の人とも言われ、兄金一の妻末子に想いを寄せていたとも言われる勘助。身長180センチにも達する長身の勘助。『銀の匙』が評判になったと言っても、その後の勘助、文筆活動で生計を立てて行けたとは、どうしても考えられない。
1923年、関東大震災で神田の岩波書店は焼失し、仮事務所が岩波茂雄の自宅に置かれた。この岩波の自宅が、かつて勘助が過ごした家である。そして、大震災をきっかけに東京市街地を離れる風潮が強まる中、勘助も、1924年から32年まで平塚で暮らし、1942年に兄嫁末子が亡くなると、和(和子)と結婚。57歳だった。この結婚の日、兄金一は自死している。
1943年10月。勘助夫妻は静岡県安倍郡服織(はとり)村、現在の静岡市葵区羽鳥に疎開して来た。疎開にしてはずいぶん早い時期であるが、当初は東京を離れての静養が目的だったようだ。それにしても、なぜ静岡を選んだのか、私には不明である。
勘助夫妻は服織村新間字樟ケ谷の前田家の離れを借り、1945年3月、服織村羽鳥に転居。終戦を迎えた。服織は安倍川の支流藁科川の北側にひろがる地域で、静岡市街地に近い。地名が示すように「機織り」由来の地で、伊勢物語の昔から都と東国を結ぶ幹道が通過し、服織荘として荘園の時代もあった。この服織で、人間嫌いの勘助ではあるが、地元の人びととの交流が生まれた。とくに、二十歳を少し過ぎた若者だった稲森道三郎(1923年3月7日生まれ)は、勘助に師事し、味噌などの製造業に携わりながら、随筆家としても活躍し、『中勘助の手紙~一座建立』(中公文庫)などを出版している。稲森は同じく静岡市出身の山川静夫(元NHKアナウンサー)とも親交があった。
一時、服織永住も考えた勘助は1948年4月、東京へ戻ったが、その後も勘助は羽鳥の人びととの交流を続け、服織中学校の校歌を作詞。「杓子庵」と名づけられた前田家の離れは、整備され、1995年6月、中勘助文学記念館として開館した。
やがて、勘助は中野区新井町の妻の実家で暮らすようになった。中野駅北口からアーケード街を経て、ブロードウェーセンターを抜け、早稲田通りを横断して、新井町に入り、こまごまと入り組んで進んだ先に住家があった。勘助の妻和(和子)は嶋田家三姉妹の長女で、豊(とよ)、秀(ひで)という妹がいたが、豊は嶋田姓を名乗り、勘助夫妻と同居であったようだ。
勘助の文章のうまさは漱石も高く評価していたが、戦後、泉鏡花の妻すずの養女泉名月(鏡花弟斜汀の娘)が、文学修業のため谷崎潤一郎に預けられた時、谷崎は勘助に文章指導を依頼している。
1963年4月。漱石の妻鏡子が85歳で亡くなった。その翌年、東京オリンピックがあり、さらにその翌年の1965年5月3日、勘助は脳出血のため、日本医科大学附属第一病院(飯田橋)で亡くなった。80歳。
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