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24.浄土真宗の教えから語る漱石
今日は『浄土真宗の教えから語る漱石』と題してお話しするわけですが、もとより私は浄土真宗について学んだわけではありませんし、浄土真宗の僧侶でもありません。仏教研究の学者でもありません。したがって、専門家からみれば、間違っているかもしれませんが、私なりに、精一杯お話ししたいと思います。
人間というのは困った生き物で、「自分」というものをもっている。そして、「自分」は「このようにありたい」という自己実現に対する欲求をもち、「自分」というものが永久に続いて欲しいと願っています。
けれども、ほとんどの場合、「このようにありたい」という欲求と現実の間に大きな違いがあるし、生き物は「生きること」を求め続けて、つねに「死にむかって」突き進んでいるのですから、いくら生きたいと願っても、「自分」がいずれなくなってしまうことは100%確実です。しかも人間はそのことを知っているのです。そのため、人間は理想と現実の矛盾にイライラし、生と死の矛盾に不安を抱え生きていかなければなりません。
生きているもの、とくに動物は、生命の危機を「痛み」、「かゆみ」、「空腹感」など、身体的苦痛として感じとるでしょうが、人間はそれに加えて、脳が高度に発達し、「自分」というものをもつことによって、脳の働きから生じるさまざまな苦痛、つまり精神的苦痛を生涯もち続けなければなりません。「このようにありたい」という水準が高ければ高いほど、矛盾も大きく、イライラ感も大きくなります。「生きること」に対する欲求が強ければ強いほど、「死」に対する不安感も大きくなるし、キケンに対して過敏になると、すべてのことが心配になってきます。
私たち人間は、程度の差こそあれ、イライラ感や不安感を抱えて生きており、心配は尽きません。そして、身体的苦痛を軽減するために、医薬や社会制度が生み出されたとしたら、精神的苦痛を軽減するために、趣味・娯楽や精神医学、宗教が生み出されていったと言えるのではないでしょうか。
夏目漱石も人間である以上、当然、悩みや不安感を抱いて生きていかなければなりませんでした。1889年1月、第一高等中学校(略して、一高)本科在学中に正岡子規と親しくなった漱石は、翌90年8月9日付の子規に宛てた手紙で、つぎのように書いています。一高を卒業し、東京帝国大学に入学する間の夏休みの時期です。
此頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやでゝゝゝ立ち切れず去りとて自殺する程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分かあるせいならんか「ファウスト」が自ら毒薬を調合しながら口の辺まで持ち行きて遂に飲み得なんだという「ゲーテ」の作を思ひ出して自ら苦笑ひ被致候(中略)知らず生れ死ぬる人何方より来りて何かたへか去る又しらず仮の宿誰が為めに心を悩まし何によりてか目を悦ばしむると長明の悟りの言は記憶すれど悟りの実は迹方なし是も心といふ正体の知れぬ奴が五尺の身に蟄居する故と思へば悪らしく皮肉の間に潜むや骨髄の中に隠るゝやと色々詮索すれども今に手掛りしれず只煩悩の焔熾にして甘露の法雨待てども来らず欲海の波険にして何日彼岸に達すべしとも思はれず(中略)あゝ正岡君、生きて居ればこそ根もなき毀誉に心を労し無実の褒貶に気を揉んで鼠糞梁上より落つるも胆を消すと禅坊に笑はれるではござらぬか御文様の文句ではないけれど二ツの目永く閉ぢ一つの息永く絶ゆるときは君臣もなく父子もなく道徳も権利も義務もやかましい者は滅茶ゝゝにて真の空々真の寂々に相成べく夫を楽しみにながらへ居候棺を蓋へば万事休すわが白骨の鍬の先に引きかゝる時分には誰か夏目漱石の生時を知らんや
――不安、悩み、苦しみ、イライラ。この世はほんとうに厭な世の中だ。そこから逃れて平静を得たいけれど、鴨長明の『方丈記』を読んでも答えは得られず、根本の原因は「心」と思ってみても、「心」はどこにあるかわからない。何があっても平気でいたいと思うけれど、ちょっとしたことにも慌てふためいて、これじゃ、禅宗のお坊さんに笑われてしまう。真宗の「御文様」に書いてあるように、結局、死ねば、この世の煩わしいことから解放されるだろうけれど、死ぬわけにもいかず、いったいどうしたらいいんだろう!
漱石23歳。何か、漱石の叫びが聞こえてきそうな手紙ですが、帝国大学を出て、大学院にまで進み、イギリスにも留学し、帝国大学の先生になり、やがて小説家として有名になり、人生における成功者のひとりとして、生涯を終え、そればかりか、死後も「文豪」とよばれ、100年以上経っても作品が読まれている。そんな恵まれた人間である漱石が若い頃から、不安を抱き、悩み、苦しみ、イライラしながら人生を送り、そこから何とか逃れたい、平静な心を得たいと、求め続けてきたなんて、「そんなぜいたく言うな」と言いてやりたい気持ちにもなります。
けれども、漱石の悩みや不安感は、どうも一般水準よりひどかったようです。
漱石の弟子の一人で、ある面、きわめて客観的に漱石を分析している小宮豊隆は、『夏目漱石』という本でつぎのように書いています。
漱石は、道理に戻る一切のものを、機微に看破する、鋭敏な感覚を持っていた。同時に漱石の想像力は豊富であり、漱石の頭脳は迅速に活動した。誰にも気がつかないほどの小さな汚染でも、漱石の眼には大きなものとして映り、のみならずその中にあらゆる悪の芽を含むものとして、忽ちのうちに顕著な花が咲き出る。想像力を持たず、神経も遅鈍で、反省することを知らない人間が、自分にはそんなことをした覚えはないと言い張っている間に、漱石は、そのために傷つけられ、そのために悩み、そのために狂って、停止することを知らない状態に置かれることも、十分可能なのである。(略)とうとうほんとの精神病者にされてしまった。
漱石は、ずば抜けて頭脳明晰で、それ故に、恵まれた人生を送ることができたのですが、同時にそのずば抜けて明晰な頭脳故に、他の人では悩まないような些細な刺激にでも反応して悩み、不安を抱き、イライラし、楽しめず、落ち着かない日々を過ごして来たようです。
そうした状況から解放され、落ち着いた安息の日々を得たい。このような自分自身を突き動かす力によって、一見、合理主義者で、宗教に救いを求めるなど考えられないような漱石が、第一高等中学校本科時代(1888~90)、親鸞や浄土真宗へ関心をもつ正岡子規に出会い、禅宗に関心を示し参禅に励む米山保三郎と出会うことによって、禅宗や真宗に導かれていったのでしょう。
水川隆夫は『漱石と仏教~則天去私への道』(平凡社)において、漱石が子規に宛てた、先ほど紹介した手紙を引用して、
平静な動揺しない心をもたらしてくれるものとして、「禅坊」や「御文様」が出てくるように、禅や浄土真宗による解脱や救済に関心をもっていたことである。その後、漱石は、生涯を通じてこの平静な心を求めつづけることになる。
と、書いています。
平静な「心」を得るために、読書家の漱石は禅宗や真宗に関する本を読み、座禅をおこなったり、研鑽を積んだようですが、禅宗ではどうもうまくいかなかったようです。
1894年12月、再び円覚寺に参禅し、宗演から「父母未生以前本来の面目」という公案を与えられ、この時は、何かを得よう、救いの糸口をみつけようと、真剣に悪戦苦闘したけれど、結果、漱石は公案を一つも解けず、寺を後にしています。松山、熊本と西進しても、漱石の禅に対する関心は続き、1898年、五高の舎監浅井栄凞のもとで座禅をおこなっていますが、運動不足で下痢をして中止せざるを得なくなっています。
結局、漱石は参禅によって、雑念を払い、平静な境地を得ることはできなかったようですが、なぜそうなってしまったのか。『漱石と仏教』で水川隆夫は、
明治二十七年(一八九四)十二月二十三日(または二十四日)、漱石は再び円覚寺の門をくぐった。「此三四年来沸騰せる脳漿を冷却して尺寸の勉強心を振興せん為」(明治二十七年九月四日付正岡子規書簡)に、ますます深まる苦悩を自力で克服しようとしたのであった。
と、分析しています。
ほんらい、禅というものが、「無知の知」同様、自分が無知であることを知ることによって、自らの心もまた無心にしていくことによって平静を得るものであるとするならば、漱石は公案に接するたびに、真剣に考え、沸騰せる脳漿はますます沸騰してしまう。つまり、知的興奮がますます高まって、平静どころではない。禅が知的な側面を持つゆえ、漱石は禅に惹かれていったのでしょうが、けっして平静をもたらすものにはならなかったのではないでしょうか。それでも漱石は、禅宗式の葬儀で送られ、禅宗の戒名を与えられているのですが・・・。
これに対して、漱石は浄土真宗を通して、何かをつかみとっていたようです。
まずは、小説家漱石の出発点となった『吾輩は猫である』の最期の場面を紹介しましょう。
ビールを飲んで酔っ払い、大きな甕に落ちた吾輩。いかにもがいても甕からあがることはできない。遂にもぐる為に甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分かりにくくなってくる。こんな呵責に逢うのは甕から上へあがりたいからで、あがりたいのは山々でも上がれないのは知れ切っている。無理を通そうとするから苦しい。自ら求めて苦しんで、自ら拷問に罹っているのは馬鹿気ている。そう思った吾輩は、
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎり御免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。苦しいのだか難有いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。只楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。
最期には、「阿弥陀さま、救ってくださって、ありがとうございます」と感謝の言葉を口にして終るのです。
この『吾輩は猫である』の最期の部分に、親鸞の教え、浄土真宗の教え、「他力本願」の真髄がみごとに表現されているように、私は思うのです。1905年、漱石38歳。漱石は、けっして「真宗嫌い」などではなく、真宗を深く学び、作家デビューする以前すでに、かなり精通していたのではないか。私はそう思わざるを得ません。
水川は、先に紹介した1890年8月9日付の子規宛手紙を引用して、《漱石は「浮世」をいとい、無常の運命によって自分の命が尽き、空寂の境地に到達できることを「楽しみ」にしている》と評しています。
この世はまさに「憂世」。「厭な世の中(厭世)」である。私たちの人生なんて、所詮、大きな甕のようなもので、そこへ落ちた吾輩がいくらもがいても、甕から上がれないのと同じように、生きているうちに平静を得ることなど、望んでもできないことである。この世を去って、初めてすべての煩わしさから解放され、平静を得ることができる。平静を得たいと思えば、死ぬしかなく、『吾輩は猫である』の最期に、《吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ》とあるように、漱石は死んで太平を得ることを楽しみにしているのです。
しかしながら、漱石は手紙にあるように、自ら生命を断つことを望んではいません。この考え方はその後も継続されており、24年後の1914年11月14日に、岡田(のちに林原)耕三に宛てた手紙においても、
私は今の所自殺を好まない恐らく生きる丈生きてゐるだろうさうして其生きてゐるうちは普通の人間の如く私の持って生れた弱点を発揮するだらうと思ふ、私は夫が生だと考へるからである私は生の苦痛を厭ふと同時に無理に生から死に移る甚しき苦痛を一番厭ふ、だから自殺はやり度ない夫から私の死を択ぶのは悲観ではない厭世観なのである悲観と厭世の区別は君にも御分りの事と思ふ。
と言うように、自殺には一貫して反対しているのです。漱石が学習院で講演する十日ほど前に書かれた手紙です。さらに、この岡田に宛てた手紙で漱石は、
私が生より死を択ぶというのを二度もつゞけて聞かせる積ではなかったけれどもつい時の拍子であんな事を言ったのです然しそれは嘘でも笑談でもない死んだら皆に柩の前で万歳を唱へてもらひたいと本当に思ってゐる、私は意識が生のすべてであると考へるが同じ意識が私の全部とは思はない死んでも自分はある、しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる。
漱石は生命の永遠性を信じており、自分が死んだら万歳を唱えてもらいたい、とまで言い切っていますが、この世における生命の灯火が尽きるまで、生きていこうとしているのです。
漱石が『吾輩は猫である』に書いたように、最期にすっと力を抜いて、すべてを阿弥陀様に委ねれば、太平を得ることができるかもしれません。しかしそれは、死ぬことに他なりません。死ねば楽になるかもしれませんが、死んじゃっては何もなりません。死ぬまで生きていなければならないのですから、生きているうちに平静が得られないのでは何の意味もありません。
それではどうしたら良いのか。『草枕』の冒頭にその答え、少なくともヒントが書かれているように、私は思います。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
この世はまさに「憂世」。「厭な世の中(厭世)」である。けれども、この世を離れてどこへ行くのか。越した先はもっと住みにくいだろう。それでは、大きな甕のような「この世」で、どのように生きていけば、少しでも平静な心が得られるだろうか。漱石は真宗の教えに接する中で、二つの極意を会得したように、私には思えます。
第一は、詩や画(絵)。もっと広く、芸術と言って良いでしょう。「憂世」を生きる私たちに、しばし、安らぎや癒しの時を与えてくれるのです。『草枕』では、このように続けています。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
「ありがたい世界」という表現に、真宗の影響を感じさせますが、漱石も俳句を創り、小説を書き、また画を描いている時が、しばし癒しの時だったのでしょう。そして漱石は、その芸術を自分の職業としていく道を選び、また、どこまで自覚していたかわかりませんが、漱石の創作物が、人びとに癒しのひと時を提供していったのです。漱石は今、紹介した文章の前に、つぎのように書いています。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
第二に、「この世」をみる「世界観」です。生き物はすべて「死」にむかって生きている。「生きたい」けれど「生きられない」。少しでも「苦痛のない、楽しい」人生を送りたいけれど、それは叶わぬこと。「生」と「死」、「楽」と「苦」という矛盾の中で、私たちの悩み、苦しみ、不安感が生まれて来ます。漱石は、「この世」を『草枕』で、このように書いています。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
二十歳から、二十五歳、三十歳と示すことによって、段階的に進化している様子がわかります。それは、真宗を学びながら、漱石が平静を得る方法を段階的につかみ取っていった過程を示しているのかもしれません。
まず、「憂世」「厭世」が肯定的に捉えられ、続いて、この世の「明」と「暗」、「生」と「死」、「楽」と「苦」が表裏一体のものとして捉えられています。二つの相反するものの一方だけを取り除こうとしても、紙から裏面だけ切り離そうとしてもムリであるように、甕をガリガリひっかくように、人生から「暗」だけ、「死」だけ、「苦」だけ取り除こうともがいても、所詮、切り離すことができないものだから、ムリなものはムリで、ムリを通そうとするから、苦悩は増すばかり。ともに「あるがまま」に受け入れていくことが、平静を得る道なのだ、と。
そして、第三段階において、「生」と「死」、「苦」と「楽」。表裏一体の一方が強ければ、反対のものも強くなければならない。「プラス」が強くなればなるほど、「マイナス」もまた強くなっていかなければならない。光りが明るければ明るいほど、その影は暗く深くなっていく。つまり、大きな喜びの陰には、大きな悲しみが潜んでいる。逆に言えば、大きな悲しみの時に、大きな喜びが付き添っていてくれるのです。「悲しみが大きい」と悲嘆にくれなくても、よく見ると、普段より増して「喜び」が輝きを放っているのです。このようにして私たちは、「悲しみ」もまた「あるがまま」に受け入れていけるようになるのです。この発見は、人生において平静を得る真髄のように私には思われます。
漱石は、良い成果を得ようとすればするほど、その反対に神経衰弱が昂じて破滅の道にむかって行きました。つまり、「生の欲望が強くなればなるほど、不安もまた強くなってくる」ということです。そして漱石は、「死へのあこがれが強くなればなるほど、生への欲望もまた強くなった」のであろうと思います。こうした捉え方は、後に「森田理論」などでもみられます。
このように、「プラス」と「マイナス」が背中合わせに同居している状態を漱石は「諷語」と呼んでいます。「諷語」という言葉は、『吾輩は猫である』のすぐ後に発表した『趣味の遺伝』で登場しています。つまり、『草枕』を発表する前に、つかみとっていたのです。
『趣味の遺伝』で、
諷語は皆表裏二面を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫の渾名に使うのは誰も心得ていよう。(略)表面の意味が強ければ強い程、裏側の含蓄も漸く深くなる。
というように漱石は「諷語」について述べ、さらに、《滑稽の裏には真面目がくっ付いている。大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談の底には啾々たる鬼哭が聞える》という例を挙げ、やがて親友の恋人と判明する寂光院の女を、「諷語」の中に説明しています。
最も美くしきその一人が寂光院の墓場の中に立った。浮かない、古臭い、沈静な四顧の景物の中に立った。するとその愛らしき眼、そのはなやかな袖が忽然と本来の面目を変じて蕭条たる周囲に流れ込んで、境内寂寞の感を一層深からしめた。天下に墓程落付いたものはない。然しこの女が墓の前に延び上がった時は墓よりも落ちついていた。(略)上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこの女が、なぜかくの如く四辺の光景と映帯して索寞の観を添えるのか。これも諷語だからだ。マクベスの門番が怖しければ寂光院のこの女も淋しくなくてはならん。
この世を「憂世」「厭世」と捉えていた漱石が、『草枕』に至って、積極的、前向きに捉えるようになっていることがわかります。この世は、不安ばかりの「憂世」で、「厭な世の中」であるけれど、生きている限り、「生きること」と「苦しみ」を切り離していくことはできないのであり、それを「あるがまま」に受け入れて生きていく。何があっても驚かない。ある面、人生に対する開き直りとも取れます。
《前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした》吾輩の姿は、何も死んで太平を得る姿ではなく、生きているうちにすべてを阿弥陀様に任せて、人生を「暗」も「苦」も「死」も「あるがまま」に受け入れて生きていく姿を示しているのかもしれません。「あるがまま」という言葉は、「森田理論」でもよく使われますが、この「あるがまま」という言葉を、「則天去私」(天に則って私を去る)という言葉で表したのが漱石です。
『草枕』という作品や、「則天去私」という言葉は、漱石の「禅宗好み」から来ていると捉えられることが多いように思われますが、私には真宗の真髄をつかみとる中で生み出された作品であり、言葉であるように思われるのです。
漱石は、1916年11月発行の新潮社の日記帳『文章日記』大正六年版に、文章を書く上での座右の銘として、「則天去私」と揮毫しています。もちろん、漱石は1917年、大正6年を迎えることなく、太平の世界へ行ってしまいました。
漱石より一足早く、漱石が『吾輩は猫である』を書く前に、太平の世界に行ってしまった子規は、死の三カ月ほど前の1902年6月2日、結核の病床で『病牀六尺』に、
余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きてゐる事であった。
と、書いています。これはまさに、子規が真宗からたどりついた禅宗の悟りであり、また、漱石がたどりついた「則天去私」の境地と同じと言っても良いでしょう。漱石もまた、真宗の教えから禅宗の悟りにたどりついたのかもしれません。そこには、真宗、禅宗を越えた普遍的な悟り、人生の「生きる知恵」があるように思われます。
『道草』という作品があります。そこには養父母や岳父まで出てきて、とりわけ現実の養父母である塩原昌之助夫妻が『道草』に出てくる人物そのままと、漱石研究者のあいだにも受け止められ、そのイメージがすっかり定着して今日に至っています。しかし、漱石が言いたかったのは、養父母の悪口ではありません。
漱石は健三の言葉を借りて、《「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」》と述べています。
人生なんて、苦しみ、悲しみ、不安の連続です。ひとつ終わったと思っても、つぎつぎ襲って来る。そのひとつひとつに関わり合って、一喜一憂していたらどうなってしまうのか。『道草』九十七は、つぎのような一文で始まります。
\
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭の何処かでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声が猶彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返して已めなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
その声は忽ちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」
「己の所為じゃない。己の所為じゃない」
健三は逃げるようにずんずん歩いた。
結局、周りからもたらされるさまざまな心労に翻弄されて、「自分」は何をするためにこの世に生れてきたのか、見つけることすらできずに一生を終わってしまう。人生の途中で、どうでも良いようなことに引っ掛って、時間を費やしてしまう。まさに人生は「道草」、つまり「途中で他のことをして手間どること」の連続である。そして、道草したことが「自分の責任ではない」と言っても、結局は逃れることができない、自分の人生には、自分自身が責任をもたなければならないのだと。――このことが、漱石のもっとも言いたかったこと。『道草』のテーマであり、また『道草』と言う題名をつけた意図もここにあると、私は思います。
漱石自身も自分の人生を振り返ってみて、どうでもいいようなことに心を砕いて、いったい自分は何をしてきたのだろうか、何のために生まれて来たのだろう。「道草」ばかりしてきたとの思いを強くしていたのでしょう。49年の生涯で、途方もなく大きなことを成し遂げたと思われる漱石が、自分の人生を「道草」と評価するならば、私など自分の人生を何と評価したら良いのでしょうか。
けれども、漱石の真宗に対する理解の方向性、流れからみると、連続する「いのち」の旅のひとコマとしての「人生」そのものが「道草」であり、煩いを切り離した人生などあり得ない。「人生即道草」、「道草即人生」。人生とはそんなもの。煩いの連続する人生を肯定し、受け入れていこうとする漱石の姿勢が、『道草』という言葉に込められているように、私には思われます。そして、それは自分の人生に何の価値も見出すことができないような私自身にとって、救いになります。
「真宗王国」金沢に生まれ、「蓮如さん」に親しみを感じ、金ぴかのお仏壇の掃除をしながら育ってきた私は、図らずも出会った漱石によって、真宗の教えに導かれていきました。漱石との巡り合わせは、私にとって、ほんとうに不思議な縁。有り難い出会いです。
人生、いかなることが起きようと、それが人生であり、「あるがまま」に受け入れて、平気で生きていく。――「そうなんだ、そうなんだ」と、ひとりうなづきながら、何か救われる気持ちになっていく私です。
ご清聴、ありがとうございました。
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