新渡戸稲造の後を受けて五千円札の肖像になったのが樋口一葉です。
一葉は1872年3月25日、内山下町一丁目東京府構内長屋で生まれました。漱石が通院・入院した長与胃腸病院(現、内幸町一丁目3-1幸ビル所在地)の裏手にあたります。
山田風太郎は『警視庁草紙』(1975年)で、ありそうもない、しかし、いかにもあったような場面を書いています。それは、よちよち歩きの樋口なつ(一葉)が、「あらっ」と叫んで駆け寄って、幼児言葉で話しかける。格子窓越しに、幼女の相手をしてやるのは、当時八歳の塩原金之助。内藤新宿太宗寺門前、遊郭妓楼の前。時は明治七年、娼妓解放令が二年前に出たあと、すっかり寂れ果てた内藤新宿を舞台にしたものです。一葉と漱石には縁談話があったとも言われています。もし、二人の結婚が実現していれば、「お札夫婦」誕生ということになるのですが、実際はどうだったのでしょうか。
漱石の父直克が東京府の官吏を務めていた時、一葉の父則義と上司・部下の関係であったため、一葉をめぐって、長兄大一や漱石との縁談話が取りざたされています。鏡子の『漱石の思い出』にも、則義が度々直克に借金の申し込みに来るので、上司と部下の関係でこうだから親戚になったら何を要求されるかわからないと、破談にしたというようなことが語られています。則義がカネにしまりがなく、借金をしまくる人間であったことは確かなようで、免職もそのあたりに原因がありそうです。生前戸主が長男泉太郎に移り、長男死後女子である一葉に移ったのも、その表れと言えます。
縁談話の真偽を論ずる時、頭に入れておかなければならないのは、則義は1876年に免職になっていることです。この時点で、大一(1856~1887年)はすでに二十歳に達していますが、一葉はまだ四、五歳。鏡子の話しが事実としても、一葉の父が在職中に大一との結婚が無理なことはあきらかです。漱石は九、十歳くらい。確かに将来結婚しても良さそうな年齢差です。則義免職の1876年は、塩原夫妻の離婚話で漱石が生家へ戻った年でもあり、事情を知った則義が、これを好機と許婚によって直克の後ろ盾を得ようと、話しをもちかけたということは、考えられないことではありません。しかし生家へ戻ったと言っても、漱石は塩原姓を名乗っているわけで、実父といえども、昌之助を差し置いて許婚ということもできなかったのではないでしょうか。
とにかく、大人の思惑はどうあれ、漱石と一葉の本人どうしは何の接点もなく過ごしたものと思われます。
漱石が千駄木から引越し、9ヶ月余を過ごした西片町の借家から数十m行った崖下に、一葉終焉の家(丸山福山町四番地)があります。1894年5月、下谷竜泉寺町からこの家に引越してきた一葉は、12月に『大つごもり』を発表しました。1895年1月から翌年1月にかけて『たけくらべ』が文学界に連載されましたが、この間の漱石は、4月に松山中学に赴任、12月に鏡子と見合い。翌1896年4月には熊本へ転任。11月23日に一葉が亡くなった時、お互いの距離はきわめて遠かったのです。
漱石が一葉を少し身近に感じたのは、1897年(漱石父直克死去の年)に刊行された『一葉全集』に接した時が最初でしょう。泉鏡花などは何とか一葉に接近しようと図っていたようですが、漱石の関心の中に一葉は入っていなかったと考えられます。その漱石が『一葉全集』を読み、とりわけ『たけくらべ』に感動したという。これに対して同じ年に出版された尾崎紅葉の『金色夜叉』については、「今にみていろ、俺だってこのくらいのものは書ける」と言ったと、鏡子の『漱石の思い出』に記されています。
その後、不思議な因縁が漱石と一葉を結びつけていきます。
一葉死後七年の1902年。終焉の家に、当時一高生だった森田草平が住むようになっていました。それとは知らない草平は馬場孤蝶から知らされて驚き、1903年、孤蝶、生田長江らが草平の家に集まり、一葉会を開いています。孤蝶も一葉を目当てにこの家に通った一人だったのです。『現代日本文学全集第42篇(鈴木三重吉・森田草平』(改造社、1930年)における自筆年譜によると、1903年の項に、
その後、切通しから池の端を一周し、弥生町から大学と一高の間(現在の言問通り)へ出た。その間、草平は一身上の事情を漱石に話し、漱石はそれを終始無言で聞いていたと言います。こうして、草平を通して、漱石は一葉終焉の家の玄関先に立つことになったのです。
1910年8月、崖崩れで無残な姿になったこの家の前に、今度は漱石の妻鏡子が立っていました。その顛末は『思い出す事など』に記されています。
小宮は『門』に出てくる宗助の崖下の家は、《これはあるいはかつて森田草平が住んでいた、丸山福山町の、樋口一葉の住んでいたという家が、モデルになっているのかも知れない》と記しています。
なお、馬場孤蝶(1869~1940年)は1915年に、「女子参政権、軍縮、言論・思想の自由」を掲げて衆議院議員選挙に立候補(東京市選挙区)。漱石・森田・生田長江・平塚らいてう・堺利彦らが応援しましたが落選。堺は社会主義者で、投獄されていたため大逆事件の連座を免れた人物で、1905年、『吾輩は猫である』を読んで、エンゲルスの肖像写真を印刷した平民社の絵葉書に、感想を書いてきたことがあります。
それにしても、カネにしまりのなかった人物の娘が、お札の顔になるのだから、世の中、皮肉なものと言えるでしょう。