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4.お札仲間
千円札の顔
漱石は1984年、伊藤博文から引き継いで、千円札の肖像になりました。そして2004年、野口英世に引き継ぐまで、20年間に亘って千円札の顔として、折りたたまれたり、財布の中に押し込められたりしながら、全国を駆け巡ったのです。一方、五千円札の肖像は聖徳太子から引き継いで、1984年から新渡戸稲造、さらに2004年から樋口一葉になりました。
漱石の孫にあたる松岡陽子マックレインは、『漱石夫妻愛のかたち』で、《律義な性格だった漱石が、一九八四年に千円札の顔になったのは適切だったと思う。》と記しています。とは言っても、文士招待会や博士号さえ辞退した漱石ですから、本人の意志を確認することができたならば、お札の肖像になることなど、強く拒否したであろうと私は思うのです。
お札の肖像を誰にするか選定する際、おたがいの関連性など考慮することはないでしょうが、不思議なことに漱石は伊藤博文、新渡戸稲造、樋口一葉と深いつながりがあり、まさに「お札仲間」と言えるでしょう。
新渡戸稲造
漱石と同じ時期、五千円札の肖像だったのが新渡戸稲造です。漱石は『私の経過した学生時代』に、つぎのように書いています。
又新渡戸博士は、既に札幌農学校を済して、大学選科に通いながら、その間に来ていたように覚えて居る。何でも私と新渡戸氏とは隣合った席に居たもので、その頃から私は同氏を知っていたが、先方では気が付かなかったものと見え、つい此の頃のことである。同氏に会った折、「僕は今日初めて君に会ったのだ」と初対面の挨拶を交わされたから、私は笑って、「いや、私は貴君をば昔成立塾に居た頃からよく知っています」と云うと、「ああ其那ことであったかね」と先方でも笑い出されたようなことである。
二人は成立学舎で机を並べて勉強した仲。まさかこれが将来「千円札と五千円札の会話」になろうとは、二人とも思ってもみなかったでしょう。
樋口一葉
新渡戸稲造の後を受けて五千円札の肖像になったのが樋口一葉です。
一葉は1872年3月25日、内山下町一丁目東京府構内長屋で生まれました。漱石が通院・入院した長与胃腸病院(現、内幸町一丁目3-1幸ビル所在地)の裏手にあたります。
山田風太郎は『警視庁草紙』(1975年)で、ありそうもない、しかし、いかにもあったような場面を書いています。それは、よちよち歩きの樋口なつ(一葉)が、「あらっ」と叫んで駆け寄って、幼児言葉で話しかける。格子窓越しに、幼女の相手をしてやるのは、当時八歳の塩原金之助。内藤新宿太宗寺門前、遊郭妓楼の前。時は明治七年、娼妓解放令が二年前に出たあと、すっかり寂れ果てた内藤新宿を舞台にしたものです。一葉と漱石には縁談話があったとも言われています。もし、二人の結婚が実現していれば、「お札夫婦」誕生ということになるのですが、実際はどうだったのでしょうか。
漱石の父直克が東京府の官吏を務めていた時、一葉の父則義と上司・部下の関係であったため、一葉をめぐって、長兄大一や漱石との縁談話が取りざたされています。鏡子の『漱石の思い出』にも、則義が度々直克に借金の申し込みに来るので、上司と部下の関係でこうだから親戚になったら何を要求されるかわからないと、破談にしたというようなことが語られています。則義がカネにしまりがなく、借金をしまくる人間であったことは確かなようで、免職もそのあたりに原因がありそうです。生前戸主が長男泉太郎に移り、長男死後女子である一葉に移ったのも、その表れと言えます。
縁談話の真偽を論ずる時、頭に入れておかなければならないのは、則義は1876年に免職になっていることです。この時点で、大一(1856~1887年)はすでに二十歳に達していますが、一葉はまだ四、五歳。鏡子の話しが事実としても、一葉の父が在職中に大一との結婚が無理なことはあきらかです。漱石は九、十歳くらい。確かに将来結婚しても良さそうな年齢差です。則義免職の1876年は、塩原夫妻の離婚話で漱石が生家へ戻った年でもあり、事情を知った則義が、これを好機と許婚によって直克の後ろ盾を得ようと、話しをもちかけたということは、考えられないことではありません。しかし生家へ戻ったと言っても、漱石は塩原姓を名乗っているわけで、実父といえども、昌之助を差し置いて許婚ということもできなかったのではないでしょうか。
とにかく、大人の思惑はどうあれ、漱石と一葉の本人どうしは何の接点もなく過ごしたものと思われます。
漱石が千駄木から引越し、9ヶ月余を過ごした西片町の借家から数十m行った崖下に、一葉終焉の家(丸山福山町四番地)があります。1894年5月、下谷竜泉寺町からこの家に引越してきた一葉は、12月に『大つごもり』を発表しました。1895年1月から翌年1月にかけて『たけくらべ』が文学界に連載されましたが、この間の漱石は、4月に松山中学に赴任、12月に鏡子と見合い。翌1896年4月には熊本へ転任。11月23日に一葉が亡くなった時、お互いの距離はきわめて遠かったのです。
漱石が一葉を少し身近に感じたのは、1897年(漱石父直克死去の年)に刊行された『一葉全集』に接した時が最初でしょう。泉鏡花などは何とか一葉に接近しようと図っていたようですが、漱石の関心の中に一葉は入っていなかったと考えられます。その漱石が『一葉全集』を読み、とりわけ『たけくらべ』に感動したという。これに対して同じ年に出版された尾崎紅葉の『金色夜叉』については、「今にみていろ、俺だってこのくらいのものは書ける」と言ったと、鏡子の『漱石の思い出』に記されています。
その後、不思議な因縁が漱石と一葉を結びつけていきます。
一葉死後七年の1902年。終焉の家に、当時一高生だった森田草平が住むようになっていました。それとは知らない草平は馬場孤蝶から知らされて驚き、1903年、孤蝶、生田長江らが草平の家に集まり、一葉会を開いています。孤蝶も一葉を目当てにこの家に通った一人だったのです。『現代日本文学全集第42篇(鈴木三重吉・森田草平』(改造社、1930年)における自筆年譜によると、1903年の項に、
馬場孤蝶先生を飯田町の寓に訪いたることあり。先生、たまたま予が移転の通知を受けて、これはこれ故人樋口一葉女史の舊居にあらざるかとの疑ひを起し、わざわざ訪問せらる。果たして女史が矯居の趾なり。
と、記されています。
森田は『煤烟』の中で、一葉の名を登場させています。
四日目の日暮は、夏子は最う此世には居なかった。夏子といふ名は、此子の為に神戸が選んだので、名に因んだ一葉女史が臨終の間であったといふ同じ部屋で、一歳に足らぬ小さい皃は、掌に載せられた霰が消えてでも行く様に、ほつりと息を引取った。
夏子という名は一葉の通称(本名は奈津)から付けたもので、草平は自分の娘を実名で登場させているのです。妻つねは、1903年に生まれた長男亮一と夏子を連れて上京しており、その煩わしさがらいてう(平塚雷鳥)との不倫のきっかけとも言われています。『煤烟』はもちろん小説ですが、雷鳥を巡る実話がもとになっています。登場人物がすべて実名で書かれていない中、あえて実名で書かれているのが一葉であり、草平の長女夏子です。草平は一葉終焉の家に思いを込めたのかもしれませんが、それにしても実名で登場させた我が娘を、作品上でどうしてこのように描いたのか、草平の心理にははかりかねるものがあります。
授業程度の関わりだった漱石のもとへ、草平が足繁く通うようになったのは1905年頃。草平は『夏目漱石』(1942年)で、つぎのように記しています。
先生は夕方晩く丸山福山町の私の下宿している家の玄関に立たれた。そして、「これから飯を喰いに行くが、君も一緒に行かんか」と誘われた。私は二言と云わず応諾した。先生はその頃本郷にたった一軒あった洋食屋の真砂亭に私を連れて行かれた。
その後、切通しから池の端を一周し、弥生町から大学と一高の間(現在の言問通り)へ出た。その間、草平は一身上の事情を漱石に話し、漱石はそれを終始無言で聞いていたと言います。こうして、草平を通して、漱石は一葉終焉の家の玄関先に立つことになったのです。
1910年8月、崖崩れで無残な姿になったこの家の前に、今度は漱石の妻鏡子が立っていました。その顛末は『思い出す事など』に記されています。
小宮は『門』に出てくる宗助の崖下の家は、《これはあるいはかつて森田草平が住んでいた、丸山福山町の、樋口一葉の住んでいたという家が、モデルになっているのかも知れない》と記しています。
なお、馬場孤蝶(1869~1940年)は1915年に、「女子参政権、軍縮、言論・思想の自由」を掲げて衆議院議員選挙に立候補(東京市選挙区)。漱石・森田・生田長江・平塚らいてう・堺利彦らが応援しましたが落選。堺は社会主義者で、投獄されていたため大逆事件の連座を免れた人物で、1905年、『吾輩は猫である』を読んで、エンゲルスの肖像写真を印刷した平民社の絵葉書に、感想を書いてきたことがあります。
それにしても、カネにしまりのなかった人物の娘が、お札の顔になるのだから、世の中、皮肉なものと言えるでしょう。
伊藤博文
「お札仲間」の中で、漱石にひどい扱いを受けたのが、伊藤博文です。『門』では、伊藤博文が暗殺された事件をめぐって、宗助が御米と小六に対して、《伊藤さんみた様な人は、哈爾賓へ行って殺される方が可いんだよ》《伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ》と調子づいた口を利いています。こんなことを書いた漱石が伊藤博文の後継者として千円札の肖像になるのだから、伊藤が知ったら、何と言うでしょうか。
漱石が伊藤に対してこのようなことを書いたのは、率直な気持ちであるかもしれません。それは親友中村是公に対する気安さが招いた物言いかもしれません。漱石は是公と神田猿楽町の下宿末富屋で知り合い、二人して本所の江東義塾の教師になり、塾の寄宿舎に住むようになりました。そしてそこから、隅田川を越えて一ツ橋にある大学予備門予科(第一高等中学予科、第一高等中学はのち第一高等学校になる)に通ったのです。『永日小品』には当時の思い出が描かれています。
二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。(略)予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。然しその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今では一向覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。
その後、漱石は中村と倫敦で偶然出くわした。
学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢わなかったのが、偶然倫敦の真中で又ぴたりと出喰わした。丁度七年程前である。
帰国後、二人はまた逢わなくなった。
すると今年の一月の末、突然使をよこして、話がしたいから築地の新喜楽まで来いと云って来た。(略)それでとうとう逢わずにしまった。昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説を未だ曾て一頁も読んだ事はなかろう。
新喜楽は伊藤きんが、築地三丁目15番地(現、中央区築地四丁目6-7)に開いた料亭で、女将が同じ伊藤姓であるところから、伊藤博文がよく利用したと言われています。南満州鉄道(満鉄)総裁で、伊藤と親しい是公が新喜楽へ漱石を呼び出しても不思議はありません。現在も、吉兆・金田中と並ぶ日本三大料理店の一つで、芥川賞・直木賞の選考会もここで開かれます。
1909年9月から10月にかけて、漱石は是公の招待で満州・朝鮮を旅行しました。漱石は9月1日に東京を出発し、2日、大阪商船日満航路鉄嶺丸(1906年就航、2143t)に乗船して神戸港を出航。6日に大連港に到着し、満州・朝鮮をまわって、10月17日帰京しました。話しはしだいに伊藤博文に近づいていきます。漱石が大連へむかったと同じ鉄嶺丸で、伊藤博文も大連へむかいました。漱石帰京の前日、10月16日下関から乗船、18日、大連に到着。満鉄総裁である是公は伊藤に同行し、そして、10月26日、ハルビン駅で伊藤は暗殺されるのです。この時、すぐそばにいた中村もズボン撃ち抜かれていました。
このニュースを漱石はどのように受取ったのか。とにかく漱石は旅行記である『満韓ところどころ』を、帰国後10月から12月にかけて朝日新聞に連載しましたが、年を越したくないと、大晦日をもって連載を終ってしまったのです(これと並行して、漱石の推挙で泉鏡花の『白鷺』が朝日に連載されていました)。したがって、満韓と言いながら、満州のみの記述で終わることになってしまいました。漱石の文章の中には中国人などに対する蔑視的な表現がみられ、物議をかもし出しますが、漱石が韓国を書かずに連載を終了したのは、韓国併合へむかう流れに対する抵抗とみるむきもあります。
1910年にはいってからの動きを時系列に並べてみましょう。3月1日から『門』の連載が始まり、まだ初旬に伊藤暗殺をめぐる宗助らの会話が登場します。26日には、伊藤暗殺の実行犯とされる安重根が処刑され、『門』の連載は6月12日まで続きます。7月22日、漱石を運び、そしてまた伊藤博文を暗殺の地へ運んだ鉄嶺丸が、大連港近くの竹島燈台付近で沈没。200人以上の人が亡くなりました。なにやら運命的な船です。8月にはいって、東京は未曾有の大水害に見舞われ、22日、韓国併合。24日、漱石は修善寺温泉菊屋旅館で多量の吐血をし、危篤に陥ったのです(修善寺の大患)。
中村是公(1867年~1927年)は満鉄総裁、鉄道院総裁など歴任し、東京市長にも就任しています。祝辰巳、新渡戸稲造とならんで、後藤新平の「腹心三羽烏」とよばれた是公は、1984年から20年にわたってお札の肖像になった漱石・稲造と深いつながりがあることになります。お札の肖像にならなかった是公ではありますが、漱石生前は何かと金の面倒をみようとしたようで、葬儀の金も心配したようです。それを鏡子は丁重に断ったと言われています(松岡陽子マックレイン)。臨終に際してやって来た是公。小宮は、《鏡子が案内して枕元に座り、中村さんですよと言うと、漱石は「中村誰」と訊き返した。中村是公さんだというと、「ああよしよし」と言った。》と記しています。
広尾にあった是公の邸宅は、その後、羽澤ガーデンとなりましたが、2005年営業を終了しています。
ここまでくると、千円札の顔として漱石の後任にあたる野口英世との関係も、何とかしてつけなければなりません。ところが残念ながら接点がない。しいて言うなら、新宿区大京町にある野口英世記念会館は、漱石の母千枝の実家のすぐ近くにあたります。野口は金の面では、一葉の父則義に似たところがあったようです。さすがに漱石と聖徳太子の関係はつけようもありません。お札の肖像として代表的な聖徳太子も、お札に登場するようになったのは昭和に入ってからで、漱石が聖徳太子のお札を使うことはありませんでした。
追記:森田草平に関しては、「連載 漱石こぼれ話」の中の「漱石と阿智村」にも記述があります。
【参考文献】
『漱石夫妻愛のかたち』:松岡陽子マックレイン(朝日新書、2007)
『夏目小兵衛直克』:横松和平太⇒夏目小兵衛直克(横松和平太著)