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23.漱石と犀星
文豪夏目漱石。何をもって文豪と呼ぶのか、明確な基準などないが、金沢の生んだ文豪は泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星の三人である。漱石は鏡花に早くから注目し、『吾輩は猫である』でも取り上げ、『婦系図』を意識して『虞美人草』を書き、朝日新聞連載の機会も与えている。この「漱石こぼれ話」にも、私は『漱石と鏡花』という題で書いている。秋聲も漱石の計らいなどもあって、朝日新聞連載の機会を得ている。けれども、漱石と犀星は直接的には何の接点もない。したがって、『漱石と犀星』を書くにあたって、無理やりにでも接点をつくらなければならない。何もそこまでして書かなくても良いのだが、どういうわけか私は何が何でも書いてみたくなったのである。
漱石と犀星をつなげる接着剤は芥川龍之介である。と言っても芥川を間に漱石と犀星がつながっていた時期はない。芥川が岡田(のち林原)耕三の紹介で初めて木曜会に出席したのは1915年12月。翌年12月に漱石が亡くなり、芥川と犀星が初めて会ったのは、1918年1月13日、日夏耿之介の『転身の頌』出版記念会の席上である。芥川は1914年10月から、犀星は1916年7月から田端に住むようになっていたが、お互いに面識はなかったようである。
二人が初めて出会って間もなく、2月2日に芥川が、13日に犀星がともに結婚した。結婚後、鎌倉に転じていた芥川は1919年4月、大阪毎日新聞社社員になったのを機に田端へ戻っていた。その後、犀星は時おり芥川宅で開かれる句会に顔を出すようになり、犀星と芥川は親しくなっていった。
漱石は人生に大きな影響を与えた親友米山保三郎が金沢出身であり、また大谷繞石が金沢に赴任していたこともあり、いつか行ってみたいと思っていたが、結局実現しなかった。代わってと言うか、やがて芥川が金沢を訪れることになる。
1923年9月1日、関東大震災。生まれて間もない長女朝子を抱えて、東京での生活は困難と考えた犀星は、一家あげて(と言っても、夫婦と娘の三人であるが)金沢へ避難した。そして翌年、5月15日、芥川が金沢へやって来た。犀星は兼六園内の三芳庵に宿をとり、大歓迎。芥川は金沢を楽しんで、19日に帰京した。
大谷繞石。松江と東大でラフカディオハーンに学び、二高で虚子、東大で子規と親しく交わり、東大講師時代に漱石と親しくなった英文学専攻の俳人である。じつはこの大谷も漱石と犀星との接着剤の役割を果たしている。と言っても、芥川同様、同時につながっていたわけではない。
金沢における俳句の子規の流れは第四高等学校から始まったと言っても良いだろう。子規と同郷の河東碧梧桐や竹村秋竹などが三高(京都)から四高に転校してきたが、秋竹らは1897年、俳句の会である北声会を発足させた。ところが8月、秋竹は東京帝大へ進学するため、金沢を離れた。
余談になるが、秋竹が下宿したのは四高に近い上柿木畠35番地の藤屋という旅館で、主人は中川伊平と言った。伊平の養女に小牧という娘がいて、秋竹らの影響を受けて、1896年から中川富女として俳句をたしなんでいる。なかなかの才能の持ち主で、加賀の千代女の再来と言われた。富女も北声会ができると、さっそく入会している。
ところが秋竹は東京へ行ってしまう。恋い慕う富女は後を追って上京。いっしょに子規のもとも訪れている。富女は子規が最後に会った未婚の女性と言われる。富女は秋竹との結婚を願ったが、結納まで済んで、秋竹の方から破談にされ、その後、東京の伯母が営む料亭に寄寓し、1901年までの消息は確認できるものの、その後は不明で、1902・3年頃、東京で亡くなったとする説や、1925年に大阪で亡くなったとする説がある。
わが恋は林檎のごとく美しき(富女)。
藤屋には、1917年、竹久夢二が彦乃、不二彦を連れて泊まっている。また1929年5月には、和倉温泉を後にした鏡花が泊まっている。藤屋は金沢における鏡花の定宿であった。藤屋閉館後は横井小児科になり、1954年、日本基督教団金沢教会が、石浦町から移転してきて、現在に至っている。
秋竹が興した北声会は、入れ替わるように四高に赴任して来た藤井乙彦(紫影)に引き継がれ、1908年に八高(名古屋)転任まで、指導的役割を果たした。藤井と入れ替わるように、今度は大谷が四高教授として赴任してきた。大谷は1909年から二年間、イギリス留学を果たしたが、金沢に戻り、1922年、広島高校に転任した。高等小学校中退の犀星であるが、藤井、そして大谷といった四高教授から俳句の指導を受ける幸運に恵まれたのである。
昭和に入ってまだ7ヵ月余の昭和2年、1927年7月24日、芥川龍之介が田端の自宅で自ら生命を断った。35歳。漱石からバトンを引き継ぐように作家生活へ入って行った、大正を生きた作家芥川龍之介は、大正が終ったのを見届けるかのように逝ってしまった。
葬儀は27日午後3時から谷中斎場でおこなわれ、鏡花、続いて菊池寛が弔辞を読んだ。犀星は大きな衝撃を受け、追悼文などすべて断っている。葬儀で犀星は菊池寛と並んで座り、相対する席には鏡花と里見弴が並んで座った。芥川の葬儀に鏡花、犀星という金沢が生んだ二人の作家が相対したことになる。
話しは再び明治に戻る。
1910年5月5日夜、犀星は金沢を発って上京した。北陸線は犀星が尋常小学校在学中の1898年、金沢まで開通したので、すでに12年経過していた。鏡花や秋聲のように、徒歩を交えて、乗合馬車などで敦賀まで行くという厳しい状況は解消され、犀星は汽車で、金沢を発ち、米原から東海道線に乗り換え、新橋駅に上京の第一歩を印したのである。
私が『漱石と犀星』という題で書いてみたくなったのは、『洋灯はくらいか明るいか』を読んだからである。
『洋灯はくらいか明るいか』は、犀星上京第一日目のようすを、30年後の犀星が書いたものである。もちろん、年月を経て書かれたものであるから、犀星の記憶違いなどもあるかもしれないが、とにもかくにも上京一日目の犀星の行動を再現してみると、つぎのようである。
午前10時、ちいさな風呂敷包みと一本のさくらのステッキを持ったきりの犀星が、新橋駅のプラットホームに降り立つと、煤と埃で汚れた煉瓦の色が東京の第一印象。新橋駅にはあらかじめ連絡を受けていた幼馴染の田辺幸次(1890~1945)や、幸崎伊次郎、それに一年先輩の美少年、吉田三郎(1889~1962)が出迎えた。三人は共に東京美術学校に学んでいた。犀星は彼らの大人めいているものに対抗できない泥くささを自身の中に感じた。
新橋駅に到着した犀星は生まれて初めて路面電車を見、そして乗った。明るい車内。派手な女の人の服装を初めて見て、犀星はまばゆい感じがした。後に犀星は『私の履歴書』で、
東京の印象は電車という物、乗客という者らが田舎と違って美しいことを知った。
と記している。電車は、やはり、とても強烈な印象を与えたのだろう。そう言えば、犀星より二年前の1908年に上京した小川三四郎は、東京で驚いたものはたくさんあるが、
第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。
と、電車が真っ先にあげられている。
犀星たちは、新橋駅最寄りの芝口電停から1系統に乗車し、銀座、須田町を通って上野に着いた。田辺は大きな声で、いちいち「ここはどこ」と説明した。その大声に犀星はひやひやした。電車がすれ違うたび、眼をつぶっていた犀星だが、往復5銭で乗れる電車に好感をもち、「できるだけこれから電車に乗ってやろう」と思った。三四郎も与次郎から勧められて、おおいに電車を利用している。
上野公園で電車を降り、駒込千駄木林町にある田辺の下宿にむかった。おそらく、池之端から不忍池に沿って根津、そして団子坂を上ったと思われる。ひょっとしたら、上野公園内を通り、田辺らは誇らく思いながら、美術学校の前を通り、いつもの通学路である谷中から団子坂へむかったかもしれない。昼食をどこで食べたか書かれていないが、田辺が柏餅をごちそうしたようで、犀星は柏餅にたいそうびっくりした。犀星は、
菓子といえばお茶のはやる故郷にあんな柏の葉つぱにつつんだ乱暴な菓子なぞは、見たくともなかつた。
と記している。東京より金沢の方が、お菓子に関しては上品であると言いたそうである。
その晩、犀星は田辺と幸崎に連れられて浅草公園六区の映画館街へ行った。上野公園か上野ステイション前から電車に乗り、田原町で降り、奴鰻の前を通って六区へむかったのだろう。『彼岸過迄』で田川敬太郎が歩いている。たぶん、日本パノラマ館の前を通ったと思われるが、すでに閉館し、その後に「光と影」を売り物にしたルナパークが建設中だった。ルナパークは9月10日に開館する。
犀星はさほど驚かなかったが、金魚釣りの店がたくさん並び、一杯の人で、金魚の口の二倍くらいの泡が吹かれているのをあわれに思った。その犀星が何十年か後に、金魚に恋しながら『蜜のあわれ』を書くことになるとは。
田辺はどうだ犀星驚いたかと恰もこの群衆が田辺の所持品ででもあるように、大きな眼をひらいて彼は云つた。(略)江川の玉乗りの小屋の前に出たとき、私は玉乗りが見たいというと、田辺は叱つて田舎者と云つた。
浅草の玉乗りと言うと、『それから』に
この頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがっているが、それは、全くこの間浅草の奥山へ一所に連れて行った結果である。
という記述がある。『それから』は犀星上京の前年1909年に発表されている。漱石は浅草の喧騒を『それから』でかなり詳しく描いている。『明暗』(1916年)でもお延が津田と浅草へ遊びに来ている。
犀星は十二階(凌雲閣)を見た。そして永い間うごかずに感動していた。
田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた。
何か『三四郎』の一節を読んでいるような錯覚に陥る。さしずめ、田辺与次郎と室生三四郎といったところだろうか。
一週間に平均40時間の講義を聴いていると言う三四郎に与次郎は、
眼を丸くして、「馬鹿々々」と云ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十返食ったら物足りる様になるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎を打しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたら善かろう」と相談をかけた。「電車に乗るがいい」と与次郎が云った。三四郎は何か寓意でもある事と思って、しばらく考えてみたが、別にこれと云う思案も浮かばないので、「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちには自ら物足りる様になるさ」と云う。「何故」「何故って、そう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風をいれるさ。その上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ尤も軽便だ」
その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、「どうだ」と聞いた。
その後、平の家で晩飯を食って、与次郎は「どうだ」と聞き、木原店と云う寄席を出て「どうだ」と聞き。そして、高等学校の前で分かれる時、三四郎は
「難有う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、「これから先は図書館でなくっちゃ物足りない」と云って片町の方へ曲がってしまった。
与次郎もまた地方出身者であろう。田辺と言い方が似ている。そして、電車に乗って、東京の繁華な街へ出かけた後、「これから先は図書館」と言い放った与次郎。犀星は、その晩は田辺の下宿に泊まったが、枕を並べて寝ようとすると、田辺は、
犀星はどこか行くあてがあるかといい、あると私は応えた。あるならよし、なければ明日にも国に帰れ、一日見れば東京はたくさんなところだ。おれは君とともに共倒れになる生活はできないと彼は先ず痛烈に一撃を加えて置いて、さあ寝ようと、三十年の後に故郷の工業学校校長になる彼は云つた。
犀星はこの痛烈な一撃のためになかなか眠れなかったが、
今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であった。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかった。東京の第一夜をこんなところに送ったのも相応しければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。注:混鬧(こんどう)
『洋灯はくらいか明るいか』にも、『三四郎』にも、みずみずしい感動が息づいている。文壇に確固たる地位を築いた犀星は、馬込(大田区)の萬福寺そばの自宅で、30年前を思い出しながら、何か楽しい気分で文章を綴っていったのではないだろうか。
犀星がびっくりし、「できるだけこれから電車に乗ってやろう」と好感をもった電車は、それから10年ほど経った1919年、金沢の街を走り始めた。
漱石と犀星には、指摘されれば「なるほど」と思える共通点がある。塩原昌之助と赤井ハツ。前者は漱石の養父、後者は犀星の養母。どちらも作品で「ひどい」人間として描かれ、作品のイメージが定着して、すっかり悪者にされてしまった人たちである。しかも、本来、事実に基づいて検証していかなければならない漱石や犀星の研究者からも、先入観で評価され、記述されている人たちである。
私はすでに、「漱石気分」の第一に、『気の毒な塩原昌之助』と題して、勝手に昌之助の弁護役を買って出ている。養父の印象を悪くした作品は、もちろん『道草』である。
犀星の養母赤井ハツの印象を決定づけたのは『弄獅子』(らぬさい)である。養母は、しばしば大した理由もないのに犀星を打擲した。口答えすればさらに殴られ、長い煙管で殴られ、とにかくめちゃめちゃに殴られる。養母は大酒を飲み、役者狂いし、ヒステリイの手に負えない莫連女。犀星をはじめ四人のもらい子があるが、養育費目当てにもらったとみられている。こんな女に育てられたから、犀星は反抗的野性をもつ人間に育ってしまった。養母によって犀星の性格が形成されたという論理立ては、養父母が漱石の性格をつくりあげたという論理立てと共通する。
しかし、作品と現実を同一視して、はたして良いのだろうか。漱石の養父母に続いて、犀星の養母赤井ハツをまた私は勝手に弁護してみたく思うのである。
1919年に書かれた『幼年時代』で養母はつぎのように描かれている。
養母は、実家へたびたび行く「私」に対して、「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家へ来たらここの家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね」「時々行くならいいけどね。なるべくは、ちゃんとお家においでよ」と、穏やかな対応である。
「私」も優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がしてくる。そして、
「これを持っておへやへいらっしゃい」母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。
と言うように、まあ普通の母親像である。犀星が描く養母は莫連女ではない。
そんな養母が急変して描かれるのである。なぜか。犀星は1934年に「赤座は年中裸で暮らした」という書き出しで始まる『あにいもうと』を発表すると、『復讐』『聖処女』『女の図』『戦へる女』など、つぎつぎと作品を書いている。『弄獅子』もそのひとつとして、1935年に書かれた。犀星は、
おもに街、――市井の人間を素材として書きつづけた。私の小説といふ小説には善良な無頼漢が絡んで、頭の中の街にあふれた。(『泥雀の歌』)
と書いている。「市井鬼物」。この流れの中で、養母はどうしても莫連女でなければならなかった。漱石の養父母と違って、死後書かれたところに、ハツにとっては多少の救いであっただろう。
ハツを、カネを受取って、もらい児を養育することを一種の職業とする人物であったと言う説がある。果たしてほんとうだろうか。だいたい、四人の子どもをもらいうけた程度で、職業と言えるほどカネが入って来るはずもない。カネのためと言われるが、月々多額の養育費を貰っているわけではない。おそらく預かる時に幾ばくかの金銭を受取ったであろうが、その後は自己負担である。経済的にはマイナス。気苦労も絶えない。それにも関わらず、あえて四人の子どもを貰い受けて育てたのは、子どもを育てたいという、抑えがたい「母性」によるものだったのではないだろうか。
私は船登芳雄の『評伝室生犀星』を読んで、この推論が間違っていなかったと言う確証を得ている。つまり、ハツには子どもがあり、その子を亡くしているというのである。1882年に兄毛利元造預かりになったのは、その頃、不義の子を宿したためかもしれない。我が子への供養と、抑えがたい「母性」から、最初に貰い受けたテヱは、ハツの姪にあたるようだ。その後貰い受けた三人の子ども、いずれも実家ははっきりしている。
犀星は上京後も、たびたび帰郷し、養家に戻っている。養父死後もハツを訪ね、また東京にも招待している。
1921年5月6日、待望の子どもが生まれ、豹太郎と名づけられた。翌年5月、犀星は養母赤井ハツを初めて東京、田端の家へ招いた。なさぬ仲とは言うものの、形としてはハツの孫にあたる豹太郎を見せたいという思いも強かったのだろう。ところがこの後、思いもかけぬ不幸が犀星たちを襲う。豹太郎が風邪から肺炎を併発し、6月24日、あっという間に亡くなってしまったのである。とみ子の乳の出も思わしくなく、生まれつきもあって、虚弱な体質であったのだが。葬儀は子規の墓もある田端の大龍寺(真言宗)でおこなわれた。大龍寺は田端4丁目、滝野川第七小学校南側に現在もある。
1923年8月27日、長女朝子誕生。9月1日、関東大震災。産院は焼失したが母子ともに無事で、鉄道事情が復旧すると、一家は金沢へ避難。犀川大橋は架け替え工事の真っ最中であった(1924年完成)。対岸の寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツも、一日おきくらいに訪ねて来て、孫にあたる朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
『弄獅子』の先入観を入れずにこの文章を読む時、赤井ハツという人物は、読者の皆さんにどのように見えて来るだろうか。
漱石と犀星。何とかうまく結びついただろうか。
【追記】
『洋灯はくらいか明るいか』は、「勝手に漱石文学館」の「図書室」を入ると、「青空文庫」(外部リンク)の漱石コーナーへ行くので、作家選択で室生犀星にたどり着けば、公開作品の一覧の中に掲載されている。